GCUCのアンカンファレンスで多様性の議論があった。
アメリカには内なる多様性がある事に気がつかされた。アメリカは一つの国なのだが、移民の国だからすぐそばにいろいろな人が存在する。その結果、様々な法的な規制があって、基本的にはその人がどんな属性を持っているかで差別してはいけない仕組みがたくさんできている。
欧州の場合は、どちらかと言えば越境者に対する差別が問題となる。米国の場合はもはや戻る国が無い人が多いのに対して、どこか戻る国がある事が前提になっている感じがする。同時に欧州市民という制度があって域内の居住の自由、就労の自由が保証されている。LGBTの話では、オランダが進んでいるという印象があるが、ブランド化してEU域内から住みやすさを求めて移住してくる人を引き寄せている感じがする。
コワーキングに関わっていると、大前提に人間は平等という考え方に強いこだわりを持っている人に会う確率が高い。私自身、差別された経験がなければ恐らく人間は本来平等なんじゃないかと思うに至らなかった可能性があり、外国に出たことによってはじめて心から気がついた気がするのだが、アメリカや欧州では、はるかにそういった違いに気がつく機会が多いのだろうと思う。差別された時に、ナショナリストに向かうか、人権に向かいあうようになるかは、人それぞれな気がするが、数多く接すれば一緒にやって行くしかないと思う人の量は増える気がする。
何が正しいかは分からないが、置かれている環境によって気がつけることは変わると感じるのである。
アメリカに行った時に強く感じるのは、英語を話さない奴は人間扱いされないと感じる事だ。欧州では英語はほぼすべての人にとって第二の言語であって、英語を話せる事がパスポートのような効果を生む局面はあるが、自分の身の回りに少なからぬ英語を自由に使いこなせない人がいるので、許容度が相対的にかなり高い。
インターネットによる情報流通の激変だけでは、恐らく多様性の理解は頭打ちになる。やはり実際に対面で会って、良い意味で喧嘩、論争をしないと超えられない壁があるのだろう。
為政者はしばしば何とかして外を見せないようにしようとする。恐らく、それが戦争を生んでいるのだろうと思った。