国立国会図書館法の前文には「真理がわれらを自由にするという確信」が書かれている

国立国会図書館法の前文には、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」と書かれている事を今日知った。以前、習ったことがあったかも知れないが、今日改めてその前文を読んで驚きを感じた。

また第4条には「館長は、職務の執行上過失がない限り在職する。館長は、政治活動を慎み、政治的理由により罷免されることはない。」とも書かれている。戦後1948年に制定されていて、今振り返って見直してみるとすごい法律ができたものだと思う。

トランプ氏が真実な報道に対してFake Newsと連呼し、山のような意図的に不実な記事が発信される時代となった。昔からプロパガンダもあれば詐欺の横行もあった。私は昔が良かったとは思わないが、あの悲惨な戦争の直後には、本当に真実を追求して日本の民主化と世界平和に寄与することを使命とする法律が作られたのだ。私は、真実が覆い隠されている状態の上に何かを積み上げていった先に平和な社会があるとは思えない。土台のしっかりしない建造物は美しく見えても脆い砂上の楼閣だと考えている。どんなに愚かしく見えても、一つ一つ丁寧に真実を積み重ねていくことによって初めて時間を乗り越えていくことが可能になると信じている。

一方で、真理は極められることのない目標でしか無いと思っている。科学的真理を解き明かそうと思えば、精度が上がれば上がるほど確実だと思っていた原理が成立しない事象が明らかになる。現代では地動説のほうが天動説より上手に原理が説明できることと思っている人が多いだろうが、その昔には善良な人たちであってもそれを真理だと思った人はほぼ皆無だっただろう。真理の追求には時間的な限界があり、現実的には、真理を明らかにしなければ行動しないというわけにはいかない。

それでも、長期的に見れば、真理を追求しつつ、過去の誤った判断を修正し続ける努力を続ける以外に持続可能な道はないと思う。

残念ながら、今「真理がわれらを自由にするという確信」は揺らいでいるように見える。明らかに真理を軽んじているとしか思えない人物が民主主義国で選出され、魔女裁判のような事が横行し、自由、人権の確立より、他人を踏みつけにしても既得権益を守る、あるいは他者から奪うことが正義と主張する人が支持を得る。ナショナリズムが警鐘をならす平和ボケとは全く逆の意味で平和ボケ、油断で平和が失われつつあるようにも見える。

私は「真理がわれらを自由にするという確信」は国や民族、宗教を超えた普遍的な価値観だと思っているが、時代に適合できていないだけなのかも知れない。しかし、それでも、現実との折り合いをつけないわけにいかなくても、それでもなお、真実の解明を追求し続けたい。