オウム真理教の13人の死刑の責任

私は、13人の死刑に責任を感じている。

麻原彰晃が無垢だったとは私は思わない。まず間違いなく、人殺しはあっただろう。ほぼ確実に罪は存在する。

しかし、死刑囚を殺した責任は主権者にあること忘れてはいけない。自分は1億分の1と思う人もいるかも知れないが、国として人の命を奪った責任を他責とすべきではない。

私は、自分はイエスを十字架につけよと叫んだ群衆の一人だと思っている。それが私の信仰である。ものすごく大勢の人が、為政者の判断を支持した。その時代の価値観に照らして「正しい」判断、正義を支持したのである。いかに消極的であったとしても、結果としてキリストを磔にした責任は免れない。

イエスを十字架につけた体制側の人間は治安を守ったと称賛されて当然である。価値観の転換を防止して、国が壊れるのを短期的には守った。明日の破滅を守ったのである。

私たちは、命を奪って生きている。自分が食べる動物の命を奪うシーンを見ればショックを受けるけれど、食べなければ生きて行けない。動物の命を奪わなければそれで良いという事でもない。死と生は隣接しているのである。

その上で、私は死刑囚の命を奪わない選択が私たちにはあった事について注意喚起したい。

安倍氏が内面でどう考えていたかは誰にもわからないし、上川法相の内面も分からない。しかし、彼らは自分の手で殺してはいない。いつものように、飲んで笑っていたのだ。悲しんでいる少数の人の存在は見てはいないだろう。自分の立場を強めるために人を殺したのだ。その人殺しを主権者は支持し続けている。戦争犯罪と変わらない。

安倍氏や上川氏を糾弾するのは易しいが、自分が殺したと想像するのは易しくない。しかし、悲しいが、私は殺した側にいるのだ。私は、死刑廃止を支持する。