子供の頃、普通は嫌で、普通にあこがれていた

hagi に投稿

子供の頃、普通は嫌で、普通にあこがれていた。でも、学校、学年学級は与件で疑いは持っていなかった。私は通う学校が一つである必要は無いと思う。
同質性の高い空間では、単一のものさしで測って優劣を競う。成績の善し悪しや競争のタイムもそうだ。それは分断を生む。体育系とか理系とか軸を選んで、他を異質なものとして排斥する。
現実の社会は多様性に満ちている。一番身近な違いは性別と年齢だろう。
学年学級男女別学は同質性を高め差を小さくする。常勝者が出にくいから具合が良い。男女を混ぜると物理的な力での優劣は越えがたくなり男子優位が「あたりまえ」に思うようになってしまう。いつの間にか、隷従が美徳に変わってしまう。
安全が保障されるようになれば、隷従は継続し得ない。半数(女性)が不利になるような常識あるいは普通の考え方は長期で見れば続くことはあり得ない。
多様性あるいは「ごちゃまぜ」な空間が機能するためには、一人ひとりの安全と尊厳が守られている必要があると思う。決してやさしい事ではない。しかし、専制の誘惑に抗う訓練は必要な事だと思う。入学選考基準で絞りすぎると疑似理想郷の実現になってしまって社会と乖離してしまうし、ゆるければ差別意識に汚染されてしまう。

私にとっては、教会あるいは教会学校がそのプロトタイプだ。子どもの時には信仰があったわけでもなく知識もなかったけれど、老若男女、障がい者の方々も共に集う不思議な場所だったのは記憶に残っている。その流れで障碍者施設にボランティアに行った事もあるが、恥ずかしながら「かわいそうな人」に奉仕するのは正しいことと考えるような上から目線だった。同じ人間として考えることはできていなかったのである。
大人になってから接したコワーキングスペース(コミュニティコワーキング)はもう一つのプロトタイプだ。そこに一歩踏み入れれば、年齢も所属組織も性別も国籍も関係なく互いを尊重して共に過ごすという考え方が魅力的なのだ。ただ、広く受け入れれば、安全・安心を保つのは難しい。絞り込めば、安全と引き換えに魅力も激減するように感じる。

感覚的には、従来型の学校教育を月・水・金くらいにして、火・木をコワーキングで過ごすようなやり方が良いように思う。自分の子どもがいるスペースでもたまには親がコワークしていて良いだろうし、知らない子どもがいるスペースでコワークすれば、見えてくることもあるだろう。10歳以下の人も10代の人も、20代から80代の人もただ一緒にいながら、それぞれが勝手に勉強会をしたり休憩時間に話したりしている場があったら良いような気がする。
逆に公的教育は、読み書きそろばんに集中した方が良い気がする。読み書きには、英語(中国語、アラビア語)は含めた方が良いだろう。コワーキングで、ITを利用した国際プロジェクトをやれば良い。SDGsは良いフレームワークを提供してくれている。
現実の社会には、経済的にうまく行っていない人や、いろいろやらかしてしまった人は沢山いる。きれいな話ばかりではない。しかし、自分が居場所としたいところに悪意を持ち込む人はほとんどいない。リスクはゼロにはならないが、「ごちゃまぜ」を機能させる道はあるだろうと思う。きっと、世の中に良い影響を及ぼすことになるだろう。