新生活49週目 - 「昔の人の言い伝え」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第22主日(2021/8/29 マルコ7章1-8,14-15,21-23節)」。マタイ伝15章に並行記事がある。新共同訳ではどちらにも「昔の人の言い伝え」という見出しがついている。

最初に福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 マルコ7・1-8、14-15、21-23

 1〔そのとき、〕ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3——ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。——5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6イエスは言われた。
 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  7人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』
 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

福音のヒント(2)に「ファリサイ派は律法を熱心に学び、厳格に守ろうとしていたユダヤ教の一派」とある。昔はパリサイ派と呼んでいてイエスがダメなやつらと言っているイメージがある。逆にパリサイ派からイエスは伝統を尊重しない社会の敵とみなされていたように感じられる。多分、ファリサイ派の人は自分たちを生粋のユダヤ人、ユダヤ人の中のユダヤ人と考えていただろう。昔からの伝統を守り、模範たらんとしていたのではないだろうか。加えて、伝統に従わないものを糾弾する傾向があったように見える。

遠い国の話として読むとそれだけなのだが、現代の日本に当てはめるとファリサイ派上級国民というイメージが多分近いんじゃないかと思う。教育レベルは高く、国家を導く側にいるという自覚と誇りがあり、中には女は三歩下がって従えとか、傷なき者、無謬な者が権威者、権力者となるのが正しく、混血はそれ自身が罪になるという考え方に立つ人たちを含むという感じ。江戸時代であれば武士。一般人では許されないようなことでも、様々な言い逃れをして罪にも問われず、利権を守り切るような人という感じ。

福音のヒントでは『「手を洗わない」は現代の衛生観念の問題ではありません』とあるが、私は手洗いは公衆衛生に起点をおく望ましい行動として始まったことだと思う。今だとマスクのようなものだろう。マスクをしないやつは社会の屑だと糾弾するような感じ。

意図を深読みすれば「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」は糾弾になるが、手を洗って食事をする習慣には従ったほうが良いと私は自然に思う。「昔の人の言い伝えに従って歩まず」というコメントは残念だ。律法がそうなっているのだから守らないとだめだろうという糾弾は中身がないだけでなく暴力的だ。

イエスが言った「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」を読み直すと、神の掟とは何かを考えなければいけないことが分かる。神の掟は生き残るための基本ルールととらえると、まず「生きろ」という神の声を第一におけば人間の戒めの位置づけは劣後する。人間の戒めは統制だから正邪を二分する必要があり、その具体的な行いは必ずしも神の掟と整合しない。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」は詭弁とも取れるが、外から人の体に入るものはその人を殺すかも知れないが、その人を汚さない(神の評価に影響しない)と言い、その人の生き方は神の裁きに影響すると言っていると聞けばまあそういうものなのだろうと感じる。

今の日本に投射すれば、純粋な日本人が有利となる制度が正しいと主張に立つ集団に対して、入管で死者を出せばそれは犠牲者が日本人であろうとなかろうと神から有罪とされるに決まってるだろうと言い切ったという感じ。傲慢は力を持つものの罠で、このくらいのことはやっても良いだろうという慢心からその人を汚す。

一方で、ファリサイ派あるいは上級国民として括って考えるのは危険である。どいうった集団に属していても、あるいは分類されたとしても一人ひとりは別の人間であり、誰もが既得権維持に汲々としているわけではない。先入観をもって接するのはイエスの教えと整合しない。また、同じ一人の人でもファリサイ派に属する人にしばしば見られる好ましからざる行動も好ましい行動もある。武士にも様々な行動があるし、牧師や神父の性犯罪だってある。同じ一人の人が模範的な行いで尊敬を集めていることもある。マタイ伝23章には以下のような記述がある。

23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。(以下略)

よく学んでいる人が公言する内容は歴史に裏打ちされた叡智に基づいているから、その教えに従うのは多くの場合良い結果を生む。食事の前に手を洗えという教えに従うのは望ましいことだと考えたほうが良い。ただ、その教えが良いものであったとしても、その教えを説いている人が実践できているとは限らない。イエスは、ファリサイ派の人が言う教えには耳を傾けるべきだが、行動にあたって何を優先するかは自分の頭で考えて決めよと言っていると読んでよいだろう。

福音のヒント(5)で「初代キリスト教会はユダヤ教の食物規定を捨ててしまいます。それは異邦人をキリスト信者として受け入れるために必要なことだったからです」とある。確かにマーケティング的に適当と思われる施策ではあるが、イエスの教えを突き進めていくと、排除を生むルールは神の掟ではないということになるのだと思う。選民思想の徹底的排除ととっても良い。ところが、教会は共同体である以上、しばしば正邪を決めなければいけない。つまり人間の戒めを設定しないと維持できないのである。そういう意味ではイエスの教えは本質的に出口のない無理ゲーだ。私は、それを現実だと思うし、出口のない無理ゲーでも出口の方向は示されている。丁寧に道を探っていけば、人権が強化されていくだろうから、望ましいことだと思う。

恐らく人間から差別の心を取り除くことはできないが、福音の宣教には意味があり、2000年分は進歩していると思う。他の宗教の指導者あるいは平信徒がどう考えているのかは分からないが、宗教を越えて神の掟を人の掟に組み込んでいくことは不可能ではないだろう。

※画像はWikimediaから引用したものBrooklyn_Museum_-_The_Pharisees_Question_Jesus_(Les_pharisiens_questionnent_Jésus)_-_James_Tissot