新生活54週目 - 「離縁について教える~子供を祝福する」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第27主日 (2021/10/3 マルコ10章2-16節)」。

福音のヒントには、「マルコ福音書では、2回目の受難予告(9章31節)の後に、イエスのさまざまな行動や言葉が伝えられています」と書かれている。「当時、社会的な立場・評価の低かった女性と子どもに対するイエスの見方」とあるが、当時と比較して本当に今の女性や子どもの社会的立場が高まっているかどうかは分からない。女性が自立して生きられる可能性は高まっているのかもしれないが、本当のところは分からない。今だって、公平でないのは変わらない。

平均で見れば腕っぷしでは男性が確実に女性に勝てるのだが、その確率的優位性が社会制度に反映されることの是非を議論できるためには、一定の経済水準に達している必要がある。逆に言えば、イエスの時代にこのような記事があるということは、疑問が生じる程度には生活水準が上がっていたのだろう。どの時代にもいわゆる寡婦は確率的に必ず発生するのだから、私は現代の離婚と区別しなくても良いのではないかと思っている。もちろん、違いは間違いなくあるが、本質的にはあまり変わらないような気がする。テーマは力の強いものに支配権が付与されるのは「愛」にそぐわないということだろう。

ここで福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 マルコ10・2-16

 2〔そのとき、〕ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
 13《イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。》

福音のヒント(2)で『律法学者の中にヒレル派とシャンマイ派という有力な2つの派があったことが知られています。この箇所についての解釈はこの2派で分かれていました。シャンマイ派は「何か恥ずべきこと」を妻の側の異性関係の問題と解釈したのに対して、ヒレル派は「何か」と「恥ずべきこと」を分けて読み、この「何か」にはもっといろいろなことが含まれるとしました』とある。この話は初めて聞いたが、非常に興味深い。異性間の関係と考えると支配、被支配の関係と読める。ヒレル派の解釈をどう読むかは意見が分かれるだろうが、「夫の食べ物を過って焦がしてしまう」というような例であれば物理的な関係性ではなく心の問題ということになるだろう。不愉快にさせただけでアウトということになる。

原則に戻れば「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」ということになる。だから、離縁はアウト、罪を犯したということになる。しかし、その原則に従うだけでは不幸を招くことがある。罪には罰が伴うので、罰を免除する規定が必要になる。それが「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」の含意だと読み取ることもできる。私はここでの「心が頑固」は罪は償われなければならないと考えることと読む。私はこの箇所からヨハネ伝8:11の「わたしもあなたを罪に定めない」という箇所を想起する。口語訳では「わたしもあなたを罰しない」と書かれている。New International Versionでは「neither do I condemn you」とある。石打の刑がcondemnに相当するから、私には「わたしもあなたを罰しない」の方が適切に思える。原文でどうなっているかは識者に聞いてみたい。英語でcondemnと訳された原語はκατακρίνω (katakrinō)という言葉で判決という意味もあるようだ。もしわたしたちの心が頑固でなければ、罪があっても罰を適用しないでいられる。愛が優先される世界であれば、罰はいらないということだと解釈している。現代の死刑不要論と通じるところがある。罪は犯されないほうが望ましいが、こだわりすぎると不幸を招くことがある。本当はモーセの例外規定はない方が良く、罰が極めて慎重に執行されるか、あるいは執行を猶予できるのが望ましいのだろう。ヨハネ伝ではイエスはその後に「これからは、もう罪を犯してはならない」と言っている。罪はあった。しかし、罰は不要だ。そして、やはり罪は犯してはならないのだ。罪を繰り返すと社会が崩壊していく。

「子供を祝福する」の段は親の信仰の話と読める。子供の幸せを願う親の気持ちをその子らは素直に受け入れて、イエスの元に向かう。理屈ではない。イエスを良いと信じて近づいてくる人はだれであれ受け入れるのが原則と考えれば良い。そこには律法の働く余地はない。一方で、弟子たちはイエスの有限な時間を有効に活用したいから、優先順位を設定する必要がある。それは律法の世界だ。現実に律法は必要だ。憤られた弟子たちはかわいそうだが、どうにもならない。弟子たちは怒られてもいるが愛されてもいる。愛は機能している。人は愛を忘れずに良いと思うことをやっていくしかない。それで良いのだろう。

福音書を読む限り、人間イエスはかなり頻繁に怒る。その怒りを時空の距離をおいて見ると合理的に思えるが、その時、その場所にいれば、怒りを受けた側にはその合理性は理解できなくてあたりまえだ。ただ、敬意があればその怒りが何を意味するのか思い巡らすことはできる。