今日の礼拝で、急にガラテヤ書1:19「ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。」が気になって、説教を聞きながら調べた。主の兄弟ヤコブはWikipediaではヤコブ (イエスの兄弟)という記事で紹介されている。
共観福音書によれば生前のイエスの行動についてはまったく理解できなかったようであるが(マルコ6:1-6並行)、十字架刑の後に復活のイエスに出会い(第1コリント15:7)豹変し、母マリアや他の兄弟らとともにエルサレムにおける初期キリスト教団ないしユダヤ教ナザレ派(エルサレム教団)に参加したようである(使徒行伝1:14)。
今まで意識したことはなかった。
インターネット時代あるいはリモート時代は、会議中だろうが、電話中だろうが、礼拝中だろうが、並行して検索して情報を集めることができる。アラブがアンティオケアの西側などという誤りはGoogle Mapを見ていればすぐわかるし、時代考証の曖昧さもすぐに分かってしまう。Web後の若者は、諸説の存在を当然のこととして受け入れられるようになっていて、主張の正しさを確率的に把握するすべを身に着けている。権威者が言ったとしても100%でないことを知っている。
パウロもヤコブも人間イエスの活動には賛同していなかった。ライブで見ていても、時間が経過しないとわからないことはある。それは2,000年後でも続いていて、新しい「ああ、そうだったのか」という発見は今も続いている。それは私にとっての現実だ。
権威を語るものはまがいものだ。そこに真実など無い。