今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第29主日 (2021/10/17 マルコ10章35-45節)」。福音のヒントを毎週読むようになって2年目に入っている。昨年の第29主日(A年)は10月18日で「皇帝への税金」だった。マルコ伝の並行箇所はエルサレム到達後の12章だから、少し時期がずれている。55週との間の3回目の受難予告は福音朗読ではスキップされている。
イエス、三度自分の死と復活を予告する
32 一行がエルサレムへ上って行く途中、
イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、 弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。 イエスは再び十二人を呼び寄せて、 自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。 人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。 そして、人の子は三日の後に復活する。」
ガリラヤ湖からエルサレムは直線距離で120km、徒歩で150km程度。一週間程度かけて移動したのだろうか。何人同行したのだろうか。イメージしようとしてもなかなか像を結ばない。12弟子とイエスだけだったとしても、それなりに大人数だ。途中、宿はどうしたのだろうか、食事はどうしたのだろうか。金はどうしたのだろうか。そういう旅の途中で、リーダーが自分の死と復活を予言しているのを聞いてどう感じたのだろうか。途中で脱落する人はいなかったのだろうか。
福音朗読 マルコ10・35-45
35〔そのとき、〕 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
「栄光をお受けになるとき」というのは、あの世のこととして言ったのだろう。この時ゼベダイの子ヤコブとヨハネにはどういう像が結んでいたのだろうか。イエスが神の子であるとかなり信じていただろう。やがて子は親から地位を継承すると考えると、それが栄光を受ける時となる。その時、最側近にして下さいと求めるのは少しもおかしなことではない。三度死と復活を予告されれば、さすがにそれが起きるということを少なくとも頭では理解したと思う。近い将来にイエスは死ぬ。しかし、それで終わるわけではないというところまではたどり着いた。だから、その時に焦点をあてた発言をしたと考えることはできる。
その時が来ると、その瞬間に世界の全てが変わると思ったのだろうか。その感覚はわかる。誰でも、自分の思いのままにならないこととか、理不尽だと感じたことがあるはずで、天国に行けば、そんな不満が解消されるはずだと思いたくなるのは自然だ。自分が死ぬ前に天国に行ければ超ラッキーだし、死後の世界だとしても天国にいければありがたい。
イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」と答えている。イエスが決めることでないなら、それは彼の父なる神が決めることだろう。つまり、地位の継承は起きないということで、神は存在し続けるということだ。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」は示唆に富む。
ヤコブやヨハネは神を頂点とする階層構造を想像して、神が引退してイエスがその地位を継承して支配者となって統治するというイメージをもったのだろうが、この言葉から想像すると、神を頂点とするなら、イエスはそこから一番遠い底辺で人を守ると言っている。天国から人がこぼれ落ちないように支えるのが自分の使命だとしている。イエスの隣にいるということは、この世の権力から殺される側にいるということだ。
幸田氏は福音のヒント(5)で、『「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ・・・。』と書いている。イエスを錨として、その少し上のところで支える者として生きるというのは、天国から落ちこぼれることのない確実な道と言えるだろう。
パウロは復活のイエスに出会って信じ、異邦人伝道という人間イエスがいた位置よりさらに遠いところに自分を送った。パウロに関わらず、復活のイエスは今も働く。ヤコブもヨハネも権力に殺されたようだが、彼らは仕える者の一人となれたのだろう。救いまくるのが使命となる。危ないが魅力的である。
父なる神は力の象徴である。それを頂点と見れば、「皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という力の社会が是となるが、少し引いてみればそれは多くの不幸の上に成り立つものであることがわかる。「ヤコブとヨハネの願い」への回答は、神は底を引き上げる意思があってイエスを送ったと読める。勝っただけで終わらせず、負けただけで終わらない社会の構築に精を出せ、神がそういう風に世界をつくったことに気付きなさいとイエスは言っている。その声が届いて「仕える者になる」ことを志す人が出て、この世を天国に変えつつある。その声が福音だ。
権力に仕えるのではなく、すべての人を支えようとする人が増えることで世の中は明るくなっていく。競争に勝つことと仕える者になることは両立する。逆説的だが、仕える者であるためには強さで支配者を目指す者に負けるわけにはいかない。独裁者の存在を許せば事実を直視した改善が機能しなくなる。ただ、独裁者は状態であって、人としてはただの一人の人だ。犯罪者も状態であって、人としてはただ一人の人だ。人としての存在は否定するべきではなく、状態が改善されることを目指すのが支える者の姿勢であるべきだろう。器の大きさが問われることになる。