新生活62週目 - 「人の子が来る〜目を覚ましていなさい」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第1主日(2021/11/28 ルカ21章25-28, 34-36節)」。

アドベントが始まった。母教会であった砧教会の現住陪餐会員でなくなってから2回目のクリスマスとなる。昨年、父の死後再び砧教会に戻る決意をしてクリスマス礼拝には久しぶりにオンライン参加したのを思い出す。しかし、2020年6月7日問題は一向に解決する気配を見せず、金井美彦氏と役員会は事実を闇に葬り続けたままクリスマスを祝おうとしている。実に嘆かわしいことである。繰り返し述べているが、私が事実と異なる告発をしていることが明らかになれば直ちに前言を撤回し、謝罪すると表明しているのにも関わらず彼は事実を明らかにしない。というか、2020年6月7日の件は前言を撤回して会堂礼拝の再開はあったと言明したのにも関わらず、その事実を指摘したことで対立関係が発生してしまった当時の書記役員である私を排斥し続けているのである。私は教会牧師としてあるまじき行為だと思うが、彼には彼なりの理由が何かあるのだろう。教会総会の約束を違えた事実も、私を排斥し続けている事実も消えることはない。

とは言え、恐らく今年も無事クリスマスは来る。問題がなくならなくても、祈りをもって迎えたい。砧教会に属する方々の上にも金井美彦氏の上にも排斥を続けている2020年度、2021年度の役員の上にも祝福があることを祈る。

今、私はエストニアのタリンに来ている。もともとは昨年2020年7月から8月にかけて1ヶ月滞在して当地で創業した企業の立ち上げを進める予定にしていた。6月7日問題は関係ないが、新型コロナの影響で延期、延期、再延期のまま来ていたが、ワクチン接種も終えたし、東京に比して高いとはいえエストニアの感染状況が改善に転じたのでこの地に滞在している。金曜日には旧市街の下町の中心ラエコヤ広場でクリスマスマーケットが開いた。私はCoworking絡みの会議に参加するためにほぼ毎年アドベントの始まり頃にヨーロッパに来る。ブリュッセルやリガ、ストックホルムなどクリスマスマーケットが印象に残る場所も多い。宗派の違う教会がそれぞれ祝うし、その地域によって祝い方も異なるが、華やかでかつ隠された現実の厳しさを垣間見るものだ。寒さに震えて施しを求める人もいるし、屋台の温かい料理の匂いが幸せの象徴のように感じる面もある。人それぞれ寒い冬にそれぞれの問題や苦難を抱えながら喜び祝うのだ。

福音朗読 ルカ21・25-28、34-36

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕25「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
 34放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

どうして、アドベントの福音朗読にこの箇所を読むのかにわかには理解できないが、福音のヒントによれば「年間の終わりの「終末」というテーマは待降節の初めに引き継がれているのです。」ということらしい。「終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間」という話はわかるような気もするが、やっぱりちょっとしっくりこない。大きな戦争は繰り返し起きているし、気象災害や疫病もかつて繰り返し起きている。温暖化は予想可能な破綻だし、キリストの第二の来臨ですべてハッピーエンドという未来は想像し難い。私には、このあたりの解釈は教会が組織を維持するためにでっち上げている話に見えている。スーパーパワーで問題が解決するという教えには抵抗感がある。

逆の見方をすれば、私が注意を怠って心が鈍くなっているということなのかも知れない。目を覚まして祈りなさいという教えは、心に響く。ただ、目を覚まして祈るということが何を示すのかは容易にはわからない。

福音のヒント(2)で「この世界の混乱に対する不安」からの解放を示唆しているのはもっともだと思う。これから何が起きるのかは本当のところはわかり得ない。飢えて死ぬのも、病に苦しむのも嫌だし、自分でできることはなんとか頑張っていくしかない。また、隣人を自分のように愛せという言葉のとおり、自分のことだけを考えていても望ましい未来など来ない。良いと思うことを目指し、自分に与えられた良いことが何かを追求するしかない。それぞれの人がそれぞれに違うから、自分の道を探す以外の道はないだろう。

自分が直面している問題は、それをやり過ごせば良いことなのか、乗り越えなければいけないことなのかは、結局は自分で決めるしかないのだ。私は、キリストに出会ったと信じて洗礼を受けた。信仰を告白したのである。それは確かに救いだった。もちろん、その瞬間から何もかもが変わったわけではないが、教会で洗礼を受けることでイエスにつながることができたと感じたのは間違いない。それは間違いなく自分の中での事実だ。改めてそれは何かと問えば、本当に苦しいときに、必ずイエスは共にいて下さるという信頼というのが答えだ。祈る時に、必ず自分の声は届いていると思えればよいのだと思う。いかに自分の希望と現実が遠くても、必ず完成に向かって時が流れていくのだと信じられれば、また新たな一歩を踏み出すことができる。

福音のヒント (4)の「「祈り」とは、このキリストとの決定的な出会いを待ち望み、「来られるキリスト」に心の目を向けていくこと」はそのとおりなのだろうと思う。同時に、キリストとの決定的な出会いは待ち望む前に常に起きている。今ここにいるキリストに向かい合っていることから気持ちをそらさずに対話するのが祈りなのだ。もちろん、現実には答えは返ってこない。そういう意味では出会いを待ち望むことになる。クリスマスが来ても何も変わらないが、区切りがあることで整理できることはある。思い煩いがある時は、祈るしかない。何かが実現するにはそれにふさわしい時がある。様々な意味で祈ってその時を待てばよいのだろう。そして、祈りとともに小さくても一歩一歩歩みを進めていくのが望ましい。「この世界の混乱に対する不安」を解消するための善き業に励むことをイエスは推奨している。日々犯している罪はどんなに小さなことでもなくなることはないが、それで終わりではない。