新生活63週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第2主日 (2021/12/5 ルカ3章1-6節)」。

福音朗読 ルカ3・1-6

1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。
 5谷はすべて埋められ、
 山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

この世は理不尽なことに満ちている。だから「荒れ野で叫ぶ者の声がする」から始まるフレーズは心に響く。それは2,000年前も今も変わらない。正しいことが通用して、割を食わない社会であってほしいという思いはかなり普遍的なものだろう。

並行箇所はマタイは3:1、マルコは1:1、ヨハネは1:19から始まるくだりである。マルコ伝はここから聖書がスタートする。

このくだりは洗礼者ヨハネの言葉である。人間イエスは少なくともひととき洗礼者ヨハネの弟子であった。

ルカ伝は報告書的な要素が強い。福音のヒント(1)で書かれているが、冒頭の部分は時間的なコンテキストを明確にしている。AD28頃というのは恐らく事実だろう。預言者が現れなくなったということは、科学が発展して周知となる事実が増えたということを意味していると思う。人の言葉より、現実、事実の価値が高まるからだ。だから、今の世には預言者は現れない。本当は言葉を預けられた人はいるのかも知れないが、預言者が世に出ることはない。

一方で、洗礼という儀式は今も現役である。水に沈めるのは、現代では苦行に類するだろうが、苦行だからと喜ぶ人は現代にもいる。当時も(耐えられる)苦行を経て開眼したいと考えた人はいるに違いない。それは現代でも変わらない。私は、時々川を渡るという表現を使うが、洗礼は川を渡る決断と権威者による承認行為である。冷静に考えると極めて怪しい儀式だが、儀式を経ると本当に川を渡って見えるものが一変するのだ。

福音のヒント(4)で「待降節から降誕節までの期間全体をとおして、「イエスが来られる」ことの意味を味わう」という記述がある。信じたものにとっては、時間が経つと受洗時の体験は遠くなるから、自分にイエスが来たことを繰り返し味わう必要があるのだと思う。間違いなく、その時は真実だと思ったのだ。

※画像はタリン旧市街のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂