聖書の読み方

hagi に投稿

昨日故あって、ガラテヤの信徒への手紙の一部を読み、Wikipedia日本語版英語版に目を通して考えた。改めて全部を流し読みした。Wikipediaの日本語版と英語版の記述差異も興味深い。英語版では、西暦48年のものと考えるのが合理的だと書かれている。50年のエルサレム会議より前だと考える根拠が示されていて、もっともらしい。

パウロがどう考えていたのか、イエスの血縁者である義人ヤコブが仕切るエルサレム教会との対立が想起される記述が興味深い。パウロは現代のシリア、ダマスカスで復活のイエスに出会って改心し、異邦人伝道を行った。生前の人間イエスの弟子たちが中心だったエルサレム教会から出た伝道師ではない。当然、意見調整のない状態で、伝道活動を行っていたから、教えに違いがあったのは間違いない。パウロは自分は直接イエスに会ったと考えているから、その経験と自分の知識に基づいて正しいと思うことを主張したと思われる。

象徴的なのは3章の終わりの辺りで、

3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

これが現在の西洋的な人権思想の端緒になったと考えることもできる。ユダヤ人キリスト教徒がマジョリティのエルサレム教会はユダヤ人を特別に扱っていたと思われ、パウロの主張は常軌を逸したものとみなされただろう。しかし、エルサレム会議ではユダヤ人も異邦人も関係なく洗礼を受けたキリスト教徒として同等であるとされる。洗礼が法に優先するから異邦人は旧約聖書の律法の支配下にはないということになった。その影響として深刻なのは、ユダヤ人でさえ、もはや律法より信仰による判断が優先するという革命的な法解釈がなされる点である。キリスト教というかパウロの解釈の破壊力はここにある。

日本にマップすれば、キリスト教徒は天皇制の支配下にはないと公然と主張していることに等しい。私には、当たり前のことに思えるが、そう思えない人からすると破壊的なことだ。

実は、教会はこの呪縛から自由になるのは難しい。パウロがそうであったように、信徒が直接神と通じてしまうと仲介者は無価値になってしまうからだ。権威は崩壊してしまうのである。本質的に平等になってしまう。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」はそういう行く末を内包している。

一方、それぞれが勝手に判断すれば社会活動は成り立たない。「キリスト・イエスにおいて一つ」は現実的には成り立つことはない。意見など一致することはないが、社会的なルールは必要となる。誰かが正邪を判断するのではなく、判断者によらない合理的なルールが必要となるが、その合理性についても完全一致などありえないから、唯一の出口はない。常に、コンテキストの影響を受けてしまう。現在のコンテキストでは「キリスト教徒も非キリスト教徒も平等で、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」といった世界を意味しているのだろう。EUのルール整備はその方向に向かっていると思っている。特定の国籍や民族を特別扱いすることはできない。できないからBrexitも起きる。

ガラテヤ書においても、パウロが生きていた時代にガラテヤの文化(常識)を前提としてコミュニケーションを成立させようとするものだから、現代の文脈や解釈者の立ち位置からパウロの主張を批判してもしょうがない。

なぜ、パウロはこの書簡でこういう主張をしたのかを読み込むのには大きな意味があると思う。正当性が認められなければ言葉が通じないと思うのであれば、そこに時間を割くのは当然だし、ユダヤ教のコンテキストに新解釈を与えるのもありだろう。聞き手は、因果律という常識に支配されているから、そこから離れた話は奇跡として受け取るか否定するしかない。当時のエルサレム教会は血統の呪縛から踏み出すことができなかったのだろう。だからといって、それで全てが否定されるわけではない。真理に至る道は一つではない。

私が、金井美彦氏がすごいと思っていたところは、彼の位置から見える世界の論評ではなく、聖書のシーンがどうだったのか、どういう背景があってなぜそういうシーンが起きたのか、そのキリスト教的な意味は何かということを丁寧に語っていたところにある。2020年6月7日までは絶大な信頼をおいていた。多分、5月後半から説教でも視点が変わってしまったのだが、なぜそうなってしまったのか私は強い関心をもっている。コロナのせいだとは思わないが、きっかけではあったかも知れない。

同じシーンの登場人物でも見えている世界は一人ひとり違う。それぞれの人がどう見えていたかを想像し、何が良いのかは自分で考えなければ人間は変わらない。教師が正邪を決めてしまうと隷従は生まれても愛は生まれない。事実はどうだったのかを探り、それを明らかにした上で、答えはひとりひとりの個人が考えればよいのだと思う。見る方向で事実も違って見えることはあるが、事実を追求するところに注力していれば、意見の違いは単なる意見の違いに過ぎない。事実を追求することを諦めてしまえば、真実に近づくことはできない。

過去2,000年で数え切れない愛の解釈が行われ、科学の進歩によって常識も塗り替えられてきた。旧約聖書の教えに沿った解釈を望む人もいれば、興味のない人もいる。パウロの主張は、自分は復活のイエスに会ったという確信から、その出会いに基づいてかなり確からしく考えることができるという自信に基づいてなされているように読める。ただ、それは彼の見える真実に過ぎない。それでも「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」という主張はとても魅力的だ。現実的にはありえないのだが、目指す姿としては魅力的なのだ。復活のイエスに出逢えば「キリスト・イエスにおいて一つ」、平等で愛の世界の中にいられるというのは、救いのメッセージとなる。

私は、金井美彦氏の不正を追求したことで砧教会での居場所を失った。その御蔭で、以前より真剣に聖書を読み考えるようになった。それは恵みなのだろう。しかし、排斥されたものの苦痛は大きく、不正を放置しておく気持ちにはなれない。夜中に目が冷めてしまうことにも何か意味があるのだろう。この道で進めということかも知れないし、別の道を行けということかも知れない。時が来れば、自分で道を決めることになるだろう。

聖書を読むときには、可能な範囲で何があったのかをできる範囲で理解した上で、その意味を考えるのが好ましいと思う。自分のこれからを決める、生き方を決める、生き方を修正していくためにはやはり自分で考える、祈るしかない。もちろん、教師の役割を持つ人の解釈は参考にしたほうが良いし、理解を進める上では広く情報を集めたほうが良い。しかし、決めるのは自分であり、決めようとしている他者を尊重しなければフェアではない。事実を追求すべきで、正統性には価値はない。正統性は過去だからだ。実績に価値はあるが、過去は塗り替えられるものだ。時代とともにコンテキストは変わる。さまざまな資料を参考に自分で新たな扉を開けばよいのだろう。