今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第5主日 (2022/2/6 ルカ5章1-11節)」。「すべてを捨ててイエスに従った」という記述から、イエスに従うということはどういうことかを考えさせられる箇所だ。
福音朗読 ルカ5・1-11
1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
ゲネサレト湖はガリラヤ湖、琵琶湖の約4分の1の広さ、霞ヶ浦とほぼ同じ広さ、海抜は-200m以下の淡水湖。対岸までの距離は10km強、水平線の距離が約5kmなので、中央部から見ると全方向に水平線が見えておかしくない広さ。海と呼びたくなるギリギリの大きさである。ただ、谷底で、周囲に湖面から400m程度の山に囲まれているので、巨大な芦ノ湖といった感じだろうか。Wikipediaには
ガリラヤ湖は谷底にあり、東西を高地に挟まれた形になっているため、しばしば強烈な風が湖に吹きつけてくる。福音書で、ガリラヤ湖に出たイエスが嵐をしずめる場面があるのはそのような理由による。また、ガリラヤ湖では多くの魚がとれるが、特にティラピアという魚がよく取れる。この魚は、使徒ペトロがガリラヤ湖の漁師であったという福音書の記述にちなんで「聖ペトロの魚」とも呼ばれる。
と書かれている。シモン・ペトロはカペナウムの漁師だったと推定されているので今日の箇所はガリラヤ湖の北側の比較的傾斜のゆるい場所での話だろう。「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」というのは今ひとつピンと来ないが、結果的に街頭演説のような形になったのだろうか。拡声器がない時代で水の音もあるだろうから群衆が静かに聞き入ったとしても30m離れると聞き取るのは難しいだろう。話を聞き取れる人は100人程度だったのではないか。割とスケールは小さい。
イエスの時代、近隣をローマ街道が通っていて、ギリシャを含め現在の南欧とエジプトの途中となる。地元民は、武力・経済力の強い外国勢力を目にしながら、それなりに慎ましい生活を送っていたのではないかと思う。とれた魚は外国人にローマの通貨で売れただろうし、グローバル化の恩恵に浴していただろう。しかし、下に見られていただろうし、外国人に搾取されているという被害者意識もあったと思われる。ユダヤの指導者にその現実を覆す力はないと考える人も多かったに違いない。一方でユダヤには旧約聖書の存在を考えると法制度や文化面では極めて優れた歴史があり、誇りを持つのも自然な感じがする。なぜ、自分たちがこんな状況に耐えなければいけないのかと不満を持つ人もいただろう。イエスの言葉にはそういう閉塞感に満ちた心に響くものがあったと考える。
洗礼者ヨハネは、ユダヤ民族は道に外れたことをしたからこんなひどいことになった、もう一度原点に回帰すれば栄光も取り戻せると説いたように読める。人間イエスは、その教えに刺激を受けて覚醒し、指導者に盲目的に従うのではなく、自分で道を探して歩め、そして協力して新しい世界を作れと言った。その言葉に従えば、自国の腐敗した指導者からの束縛からも外国人から差別され、搾取されるような現状からも脱することができると希望をもったのではないだろうか。
法律家の話はだいたい堅苦しい。宗教指導者の話は上から目線だ。上から目線になってしまった宗教指導者の話は没落期には新たな信者を引きつけることはない。守りに入ると正統性を強調するようになり排除の論理が表に出てくる。イエスの教えは、そういった仲介者は人間として偉いわけではないと言い切ったところが新しい。その新しさが評判となり、ライブでイエスの話しを聞きたいと考えて群衆を構成したのだろう。
しばらく前の日本で考えてみれば、家長は絶対でどんな理不尽なことでも妻も子供も従わなければならない、売られても文句を言わずに親に尽くせという常識、あるいは女性は男性に口答えしてはいけないという価値観に対して、親子や男女という関係性はともかく人間としては価値に変わりはないという考え方への転換に近いだろう。自分の可能性を信じて、一歩を踏み出せというメッセージに旧約聖書の新解釈を与えて正統化したのは画期的である。あなたは自由に生きて良いのだ。しかし、愛がなければ道を誤るという厳しい制約条件がついているところに納得感もある。
福音のヒント(1)では「イエスの不思議な力に触れてから、イエスに従うようになりました」とある。言葉だけでなく、実際に魚が取れたことで信じたのだろうか。私はそうではなく、ペトロにはきっかけが必要だったのではないかと考えている。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という言葉から考えると、恐らく後ろ暗いことがあったのだろう。事実はわからないが、ひょっとしたら、国に納めるべき勤めをごまかして外国人から不正に利益を得ていたかも知れない。魚は昨晩もとれていたのかも知れないし、そういうごまかしは珍しいことではなかった可能性はある。自分は汗を掻いているのに自国政府は力もないのに搾取していると考えるようになればモラルは下がる。ペトロは「この人にはバレている、やばい」と思ったのかも知れない。聖人ペトロと持ち上げられようともペトロもただの人間だ。叩けば埃はでる。ビビったところで「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」とたたみ込まれた時、覚悟が決まったのではないかと考えたい。何かこのままではいけないと思っているところに事件が起きたのだろう。
福音のヒント(5)に「不思議な大漁の話は、ヨハネ21章にもあります。これは復活したイエスと弟子たちとの出会いの物語です。時期や細部はずいぶん異なりますが、夜中にガリラヤ湖で漁をしても何も獲れなかったペトロたちが、イエスの言葉に従って網を下ろすとたくさんの魚が獲れたという点では共通しています」とある。実際どういうことがあったのかは正直に言ってよくわからないが、体験として再び「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」という言葉が届いたのだろう。
自分のことを考えると、自分でもよくわからないがいろいろな事象の組み合わせの結果、信仰告白を行い洗礼を受けた。どう屁理屈をこねても、はっきり言って信じることの合理性はない。しかし、覚悟してイエスに従うことを決めた。従うことを許されたと信じた。今も不思議に思うが、やはり今もその決意は消えていない。具体的に何がと言えるような事があるわけではないが、復活のイエスから時に応じて「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」とメッセージを贈り続けられているように感じている。ポイントは「恐れることはない。」だろう。現実には様々な問題から簡単に開放されることはない。「恐れることはない。」という言葉は、再び一歩足を踏み出す力を与える言葉だ。言い換えるとそれはこの世の成功を保証する言葉ではなく、生きるチカラを与える言葉である。成功したいと思っても良いが、愛をもってよく生きなさいという命令である。
既得権益者にとって、その周囲に「恐れることはない。」という言葉が届くことは大きな脅威となる。しかし、必ず「恐れることはない。」という言葉は降る。その時、愛が働かなければ極めて危うい。自分がどちら側に立っているとしても、愛を忘れてはいけない。
※画像はパブリックドメインのWikimediaのガリラヤ湖。