新生活86週目 - 「新しい掟」

hagi2022/05/15(日) - 09:06 に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第5主日(2022/5/15ヨハネ13章31-33a,34-35節)」。この箇所も並行記事はない。常識的に考えれば、当時の教団が解釈を加筆させたと考えるのが適切だろう。ちょっと気になるのは、この新しい掟を与えたのを復活のイエスではなく、人間イエスの行為として書いていることだ。

福音朗読 ヨハネ13・31-33a、34-35

 31さて、ユダが〔晩さんの広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33a子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネ伝では聖餐、他の3福音書にある主の晩餐の記事がない。6章にイエスは命のパンという記事があるが、聖餐の記事ではない。その聖餐の記事の場所に出てくるのが本日の箇所となる。福音朗読で省略されている33bには「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と書かれている。この「わたしが行く所」はどこのことかについては複数の解釈があり得るだろう。その後に「あなたがたに新しい掟を与える」とあるので、イエス亡き後のルールを事前に与えたということになるが本当にそういうシーンはあったのだろうか。

福音のヒント(1)では「ヨハネ福音書では、イエスの「受難」と「栄光」はほとんど一つのこととして結びついています」とある。私にはどうも抵抗がある。昇天後のイエスは三位一体の神として理解していて、「神が人の子によって栄光をお受けになった」というのは人間として生きたイエスによって神が神として人に理解されるようになったと解釈できる。霊は人間イエスの上に働いている。しかし、今日のシーンはまだイエスは人間だ。まだ生きている間に「今や、人の子は栄光を受けた」という記述には違和感がある。福音のヒント(2)の「受難の時が栄光の時」はフライングっぽい感じがする。霊から計画を聞かされていたとしても、霊の助けを借りていたとしても福音書を読む限り人間イエスがオールマイティだったようには見えない。

肉体の復活と昇天、昇天をもって三位一体の神が現実となったというのが今の私の理解で、どうもしっくりこないのである。

ただ、「互いに愛し合いなさい」というメッセージそのものには違和感はない。私は、福音のヒント(4)にある「排他的な愛」は避けられないステップだと考えている。最初は信じるか信じないかが「互い」の範囲を決める。教会の中には求道者は別にして、みなが内側の人だし、同じ神を信じる仲間となる。信仰告白をして内側に入る。しかし、その掟は排他的な愛に留まることを許さない。集団の内側だろうが外側だろうが愛をもって接することが求められている。侵略戦争を進めている独裁者であっても愛をもって接することが求められていると思う。想起するのは「蛇のように賢く、鳩のように素直に」だ。旧約の教え、あるいは解釈は排他的で敵は滅ぼす相手となるが、イエスの教えはユダヤ人であろうがそうでなかろうが愛を持って神の声に従えというもので、本質的に包摂的なものだ。

同じ神の声を聞いていても、それに基づく判断は割れる。親子であっても相愛の関係にあっても判断が完全に一致することはない。真摯に歩むべき道を自分で選ばなければいけない。相互に真摯であっても割れることがあるのが現実だ。「互いに愛し合いなさい」という教えを守った上で各自が判断するしかないのである。厳しい対決関係であってもそこに愛がなければいけないと言われていると考えている。

神学者どうしであっても意見は分かれるし、牧師や神父であっても意見は割れる。同一宗派であっても割れる。よく考え直してみると、様々な意見の一致は相手がキリスト教徒であるか否かと意見の一致率に相関はない。同じ日本人だから、男性だから、この世代だからということで一致に至ることもあれば、属性が近くてもどうにも一致に至らないこともある。

しかし、たった一人きりになったと感じたとしても、必要な時にイエスは来る。それ信じ、愛を捨てないことが人生を豊かにし、社会を進化させるのだろう。人の言うことに内容によらず耳を傾けつつ、人に依存せずに真理を求める。そして、自分に権力があったとしても、人を裁かずに進むのが良い。必要な時は、人の行動を変えさせることを躊躇う必要はない。それ自身は人を裁くことではない。誰かについていくというのではなく、神に聞くという原則を堅持すればよいのだ。

改めて、どうしても忘れてはいけないのは愛だと感じている。そして福音のヒント(4)にあるように「イエスの教えは本来、ウチとソトを区別するようなものではなかったはず」で「排他的な愛」を越えなければならない。

※画像はドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ告別説教の絵(パブリックドメイン)