今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2022/5/22 ヨハネ17章20-26節)」。ここも並行箇所はない。福音のヒントによれば、本来の復活節第6主日の箇所はヨハネ14章23-29節「聖霊を与える約束」らしい。福音のヒントでは17章全体に触れているので、聖書箇所は全体を掲載させていただく。
1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「
父よ、時が来ました。 あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、 子に栄光を与えてください。2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。 そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、 永遠の命を与えることができるのです。3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、 あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。4 わたしは、 行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、 地上であなたの栄光を現しました。5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。 世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、 わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、 あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、 御言葉を守りました。7 わたしに与えてくださったものはみな、 あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、 彼らはそれを受け入れて、 わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、 あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、 わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。 彼らはあなたのものだからです。10 わたしのものはすべてあなたのもの、 あなたのものはわたしのものです。 わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、 わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、 わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。 わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。12 わたしは彼らと一緒にいる間、 あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。 わたしが保護したので、滅びの子のほかは、 だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、 これらのことを語るのは、 わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。 わたしが世に属していないように、 彼らも世に属していないからです。15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、 悪い者から守ってくださることです。16 わたしが世に属していないように、 彼らも世に属していないのです。17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。 あなたの御言葉は真理です。18 わたしを世にお遣わしになったように、 わたしも彼らを世に遣わしました。19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、 真理によってささげられた者となるためです。 20 また、彼らのためだけでなく、
彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、 お願いします。21 父よ、あなたがわたしの内におられ、 わたしがあなたの内にいるように、 すべての人を一つにしてください。 彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、 世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、 信じるようになります。22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。 わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、 彼らが完全に一つになるためです。こうして、 あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、 わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、 世が知るようになります。24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、 共におらせてください。それは、 天地創造の前からわたしを愛して、 与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、 わたしはあなたを知っており、 この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、 これからも知らせます。 わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、 わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
あらためて読むと結構違和感がある。この時点ではイエスはまだ人間で、父である神と子であるイエスは人格分離している。そして委任を受けて永遠の命を与えることができると表明している。永遠の命とはイエス・キリストを知ることと言っている。11節では「わたしは、もはや世にはいません」と言っていて、逮捕前なのに既に死後の状態、世にいないと宣言している。
タイミングとしては、マルコ伝のゲツセマネの祈りに相当する。マルコ伝の記述が正しければ弟子たちは寝落ちしていたので、この祈りを聞いていた人間はいないはずだ。だとすると、復活のイエスからあの時何を祈っていたのかを聞いたか、霊の力によって事実が伝えられたことになる。ヨハネ伝のこの祈りは、昇天直前の祈りとして読むとしっくり来る。そのタイミングでは「わたしは、もはや世にはいません」は事実だし、「わたしはみもとに参ります」から昇天前と読み取ることができる。
復活のイエスを信じた弟子たちもイエスの昇天後の世界の想像はできなかっただろう。まだペンテコステ前で霊は降ってきていない。だとすると、「父よ、あなたがわたしの内におられ、
このような解釈は聖書理解としては異端に属するのかも知れないが、私にはしっくりくる。
預言者とキリストの違いは、霊の関わり方にあると感じている。霊は預言者の側にいて助言し、時に奇跡を起こすが、預言者と融合しているようには見えない。王に対してはさらに遠くから関わる。一方で、人間イエスでは霊は融合しているように見える。奇跡物語では、自分から力が出ていったことに気づきといった記述があり、霊の動きを知覚していて、霊は隣りにいるのではなく中にいるように読める。融合していると肉体を滅ぼして機能を停止したとしても霊はそのままで、その力は失われない。そう考えれば、肉体を伴った復活にも違和感がなくなる。
ちなみに、イスラム教ではイエスは預言者の一人に位置づけられているらしい。他の預言者と同じく、限定的な使命が与えられていた人間という位置づけのようだ。
私は信仰告白した者だから、イエスがキリストであるというところから世界を見てしまう。だから聖書箇所に違和感があっても解釈でなんとか受け取り、そこからメッセージを受け取ろうとする。そして「わたしも彼らの内にいる」を信じたくなる。しかし実感としては、霊は降るが人にはまず定着しないのではないかと感じられる。ただ、降るのは一度ではないようだ。
福音のヒント(3)にあるように「わたしも彼らの内にいるようになるためです」の「彼ら」は「キリストを信じるすべての人」を意味するとしか読めないから、内側と外側を区別する、あるいは差別する原因となる。今の私はこの部分の危険性を強く感じている。イエスが私の内にいて、会話している相手の内にもイエスがいたとするとなぜ対立が生じるのかが問題となる。やはりイエスが私の内にいるとは思えない。側にいるあるいは信仰告白に至る過程で接したと思った瞬間があるという方が感覚に合う。パウロの書簡を読むと、彼に霊は送られているように見えるが、彼の内にイエスがいるとは思えない。あくまで人間は人間で人間の力は限定的である。
そう考えると、ヨハネ伝のこの部分の記述は、ペテロや弟子にはイエスが内に宿ったとして正当性を確保しようとしたのではないかと考えたくなる。霊の助言を感じたとしても、自分が考えることと霊の働きを自分でも区別できない。ある牧師は神の声を聞くということは自分の意思を固めることだという意味の発言を何度もしている。私はそうでもあると思うし、違うとも思う。大きくも小さくも霊は働く。自分の意思かそうでないのかは自分でも分からない。自分の思う通りに自分を動かすこともかなうとは限らない。
聖霊のヒント(5)で「キリスト者の一致が大切なのは、それが神の愛をあかしすることであり、最終的には全人類の一致のためだからだ」とあるが、私は全人類の一致はありえないと思っている。キリスト者の神の愛のあかしも一致しない。一致はしないが、神の愛が具体的に何を意味するのかを追求することはできる。人権を考えることはその一つで、その仮定で性差や民族を越えた共存の未来が話題になる。ある程度進められたと思っても必ず新たな問題が見つかりゴールにたどり着けることはない。
しかし、一致を目指すことは決して無意味ではない。イエスは、力のあるものには毟るなと教え、力のないものには卑屈になるなと教えていた。違いはなくなることはないが、違いがあっても共に歩むことはできる。それは神の愛が具体的に何を意味するのかを追求することを意味すると考えている。
キリストを受け入れない世とキリスト教を受け入れない世は似て非なるものだと思う。私はキリスト教会が正邪を裁くような世界は望まない。専制と隷従から遠ざかる方向に向かって共に歩む世界を望む。それはキリストの教えに「も」適合すると思っている。
ちなみに、復活節第6主日の箇所は以下の通り。
23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
17章を読んで、その後に14章を読むと、イエスが人間であることが際立つ。こういう教えは本当にあったのだと思う。
※冒頭の画像はラファエロのキリストの変容でwikimediaから引用させていただいた。現代人は、上空に登っていってもそこには宇宙空間しかないことを知っている。しかし、このような絵を見ると神々しく感じる気持ちは今も残っているように思う。