新生活88週目 - 「弟子たちに現れる〜天に上げられる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の昇天 (2022/5/29 ルカ24章46-53節)」。正直に告白すると、昇天の記事を40日として意識して読んだことはなかった。第6木曜日ということは今年は5月26日だったということだろう。今日の箇所は福音のヒントの冒頭にあるようにルカ伝の最後の部分である。第一朗読は使徒行伝1章で、ルカ伝続編が掲載されていて、そこには「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」とある。区切りを磔刑でも復活の瞬間でもなく昇天においているのが興味深い。

福音朗読 ルカ24・46-53

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には〕46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

51節の昇天の記事は、マルコ伝16:19では「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」となっているが、カッコで括られた追補の部分。マタイ伝には記載がない。ベタニアは死海近くのヨルダン川の辺りなので、ルカ伝の記述ではエルサレムの側の話。使徒行伝の記述ではペンテコステはエルサレムのどこかで起きたことだが、実際にどこで起きたことかは簡単に調べることはできなかった。

47節はイザヤ書2章の引用とする説もあるようだ。

2:-1 終末の平和
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

預言は解釈次第で意味することが変わるが、「御言葉はエルサレムから出る」がイエスをさし、三位一体の神が「国々の争いを裁き」平和をもたらすという意味に取ることができる。大昔に、そういうことが書かれていたのは不思議に思う。

49節までの部分は最後のメッセージで「あなたがたはこれらのことの証人となる」と聞かされた人は、強烈な使命感をもっただろう。「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」で、ペンテコステでその具体的な形を知ったということになる。

イエスを信じる人なら、ライブで見たいシーンであるし、信じていない人でも見てみたいシーンではないだろうか。

こういうイベントは感動的で、人の心を揺さぶるが、イベントは瞬間で、証人としての生活は継続的なものだ。継続的な活動は困難がつきまとい、いつもいつも高揚感に包まれた状態でいられるわけではない。この時代の信者は、生きている間に天の国が来ると思っていたようで、その日をゴールとして活動していたのだと思う。現代のキリスト教では、おそらく自分が生きている間に天の国が来ると思っている人はいないだろう。いつ来るかわからないから備えておかなければと考えていても、当時とは違う。使徒行伝が読まれるようになったころは人間イエスの死後50年後あたりと想定されているので既にそんなにすぐには世の終わりは来ないと考える人が多数になっていただろう。

弟子たちに視点を当てると、プロセスは以下のようになる。

  1. イエスとの出会い
  2. コミュニティへの参加
  3. イエスの復活の腹落ち
  4. 証人の自覚
  5. 聖霊降臨
  6. 証人活動の継続的な実施

今日の箇所は4の部分に当たる。福音のヒント(4)に「この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります」とあるが、これは3の要素が強い。「死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩み」という理解は、生きている間に天の国は来ないという現実の上に成り立つ理解だと思う。

最近の私の理解は「死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩み」から少し変わってきている。この理解は自分の歩みを中心においた理解なのだが、聖霊降臨があるとおそらく自分の歩みを中心においたものではなくなる。霊が降れば(あるいは使命を確信すれば)自分の思いとは関わりなく体が動くと考えている。その時には自分の思いは劣後する。ただ、イベントの効果は長続きはしない。個人的な直近の体験としては、2011年8月25日に脳虚血で救急車で運ばれた時のことを思い出す。幸いすぐ回復して後遺症も出なかったが、死んで生き返ったようなものだと思ったのだ。その時、これからは良いことだけをして生きていこうと思ったのだが、ちょっと時間が経てば以前と変わらなくなった。自分の欲からは自由にはなれないが、イベントがあるとエネルギーを得られる面はある。主日礼拝はその重要な要素だと思う。ただ、繰り返しイベントも繰り返している内に刺激が減る。刺激が減ると得られるエネルギーも減る。自分が天に至る歩みの途上にいるというのとは違って、自分に与えられた使命を果たすのが人生の目的であり、肉体が弱く使命を忘れてしまうが、時々向こうからやってくる。それが「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」という言葉が意味するところで、降ってきた時に取りこぼすことの無いようにしたいと思う。本当は、常に降り続けているのかも知れない。

個々の信徒の視点、あるいは教会の視点でプロセスを考えると、1は出版物や口コミ等での伝道活動で6の証人活動の継続的な実施と主客の関係となる。2は教会生活の開始ということになり、プロテスタント教会では3,4,5が洗礼、会員化のステップで、信仰を得て、信仰を告白し、洗礼と共に霊が下る。そして6が延々と続く。道に迷い、時に霊が降ってきていることに気付く。何のために自分は生きているのかが問題となる。与えられる使命はひとりひとり違う。向かっている道は「罪の赦し」である。象徴的にはイザヤ書の預言「国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」という世の中の形の実現に向かうということだろう。

※画像はwikipediaのChapel of the Ascension, Jerusalem(昇天のチャペル)からwikimedia経由で引用させていただいたもの。ベタニアからは50km程度離れていて、史実に沿うかどうかは怪しいが、昇天した岩があるらしい。