新生活89週目 - 「聖霊を与える約束」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「聖霊降臨の主日(2022/6/5ヨハネ14章15-16, 23b-26節)」。私にとって、ペンテコステの意味は2020年に変質した。2020年は5月31日。この日、砧教会は会堂閉鎖完了基準を満たしていたが、なぜか会堂は開かれることはなかった。金井美彦氏がやらないと言ったのだ。あれは、どういう決断だったのだろうか。いずれ聞くことになるだろう。法廷かどうかは分からない。できれば、砧教会の総会の場でのほうが好ましいと思う。過去記事を調べてみると昨年のペンテコステの記事の書き出しは2020年5月31日触れていた。ちなみに第一朗読は去年も今年も同じ使徒行伝2章である。

福音朗読 ヨハネ14•15-16, 23b-26

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 23bわたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

まずは「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」に注目したい。

聖霊のヒント(1)は「聖霊とは何でしょうか」から始まる。『「霊」は、(中略)「風」や「息」を意味する言葉です』とある。体験としてしか、聖霊を意識することはできないから、比喩的にあてられた言葉なのだろう。気が付けない僅かな動きのこともあれば、暴風のように自由を奪うこともあると思う。秘跡に結びつけても良いとは思うが、私は思考放棄はしたくないから、ひとまず神性は横においておいて始める。

誰でも「あ、わかった」と感じた瞬間はあるだろう。そしてその「わかった」はやがて別の「わかった」で置き換えられる。トイレに行きたい時に、どうするといった反応は50年も経過すれば社会環境の変化によって正解が変わる。ある日、または、いつのまにかその時点での正解を見つけて変えていく。正解は移ろうのだ。昨日まで当たり前だと思ってきたことが犯罪行為になることも珍しいことではない。「あ、本当はこういうことだったのか」という気づきの経験は頻繁に起きる。自然に何か根源的な法則があってそれに沿って世の中は動いていると考えるようになる人は出てきて、再現性を意識すれば科学的になる。科学的考察は常識を覆す。地球が惑星の一つだとわかった瞬間はショックだっただろう。わかったという快感と、自分達が世界の中心でなかったこと、上に登っていっても何もないことが解ってしまった残念さが共存したのではないかと思う。性としての男女は二分するものではなく一定の統計分布に従う連続的な事象であることがわかってしまうと常識は変わる。時を巻き戻すことはできない。

「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」は、理解が降ってくるということで進むべき道、取るべき行動を教えてくれるということになる。ペンテコステの奇跡は「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と書かれている。精霊の力で理解できない言葉を話すようになったという強烈な話である。しかし、それまで全く理解できなかったことがある日わかるという体験は誰でもある。それがなければ私達は言葉を聞くことも話すこともできない。

一方で、聖霊に依存してしまうと努力は不要になってしまう。言い換えれば「祈り求めなさい」だけで良いことになるが、どう考えてもそれでは足りない。キリストは「福音を述べ伝えよ」を使命として弟子たちに与えた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は伝道そのものだから何とかしてイエスの教えを伝えようとする。しかし、簡単にうまくいくわけがない。今日の箇所は、万策尽きた時、弁護者、聖霊が降ってくるという約束、本当に必要なときには必ず助けを送るという約束と取るのが良いだろう。

信仰告白を行って、洗礼を受けると、その約束は自分にも保証されると思った。

弁護者は、二者の間に立つ第三者だから、本人、弁護者の他に誰かがいる。ペンテコステの時は他国で生活している信心深いユダヤ人たちがその誰かにあたる。弁護者はその誰かにも強烈な影響を与えている。むしろ、弟子たちを介して、信心深いユダヤ人たちに霊が降ったと考えてもよいだろう。

うまくいかない時、追い詰められている時にイエスの約束は自分に対してもなされてものだと信じ続けることができるかが問われることになる。それは、努力しなくてよいということではない。努力しなくてはいけないということでもない。自分の願う答えが出ることでもない。「あ、本当はこういうことだったのか」と思える時が来ることを信じられるかということなのだと思う。それはこだわるべきことではなかったという事かもしれないし、新しい未来の入口かも知れない。

自分の生き方は、そのまま伝道活動である。

※冒頭の画像は、ポーランド情報センターの「聖霊降臨祭 (Zesłanie Ducha Świętego) – ポーランドの祝祭日」から引用させていただきました。