新生活91週目 - 「五千人に食べ物を与える」

hagi2022/06/19(日) - 08:23 に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「キリストの聖体 (2022/6/19 ルカ9章11b-17節)」。「五千人に食べ物を与える」の箇所は昨年2021年は7月25日に読んでいる。

福音朗読 ルカ9・11b-17

 11b〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

今回の福音のヒントで印象に残るのは(4)の「16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」に関する記述だ。

この食事の前の行為にはイエスの食事の特徴が非常によく表れています。「パンを取り、天を仰いで、感謝(賛美)の祈りを唱え」はほとんど1つの動作です。パンを取り、天を仰ぐのは、感謝(賛美)の祈りを唱えるためなのです。「このパンがたまたまここにあるからラッキー!」というのではなく、「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める行為だと言えるでしょう。「裂いて、弟子たちに与える」もほとんど1つの動作です。裂くのはパンを1人で食べずに皆と分かち合うためだからです。イエスにとって「共に食事する」ことは、神とのつながりを深く味わい、人と人とのつながりを深く味わうことでした。わたしたちは日々の食事の中でそのことを感じているでしょうか?

『「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める』はとても大事なことだと思っている。現代は、社会(他者)への依存は深くなっていて、蛇口をひねれば水が出、電気があるのは当たり前、安全な食材が手に入り、体調を崩しても医療が受けられる。国外を含め極めて多くの人によって支えられていて、その顔は見えない。しかし、当たり前だと感じている社会は意外と脆弱で、テロも起きるし、災害や疾病も戦争さえも起きる。今日パンが食べられることは当たり前のようで当たり前ではない。今の生活には自分が頑張って勝ち取った権利という側面もあるが、自分の力で守れるものではない。だから感謝しなさいということではなく、感謝は気付きから生まれる自然な思いなのだと思う。そして、感謝の気持ちは分かち合うものだ。

賛美の祈りの結果として奇跡が起きたという因果律を想起してしまうが、神の真理を聞きたいという思いで人が集まった時点で既に事は起きているという解釈もある。パンと魚があるというのは過去の行為の結果であり、同時に男性5,000人が事実かどうかは別にしても、大勢の人が集まっているというのも過去の行為の結果である。現在の状況に感謝して持っているものは僅かであっても感謝を持って分かち合うというのは、本当に感謝していれば自然なことだと思う。僅かだから意味がないと思って行動しなければ何も変わらないが、僅かなことでも行為に移すとそれをきっかけに大きな変化が生じることもある。

群衆から見れば、イエスが裂いて配った食事は一欠片に過ぎないが、特別な意味を感じただろう。

群衆の中には備えがあった人もいたと思う。感謝の連鎖で持てるものを供出する人もいたに違いない。何も持っていない人もいただろうが、まあ結果として何とかなったと考えても良いと思う。

人は自分や家族が食べていくために働いて富を集める。将来のリスクに備えて溜め込む。それはそれで良いだろう。実際備蓄があれば生き残れる人は増える。搾取して富を集めることもできる。搾取して集めた富も富は富だ。いつ失われるか分からないが、それは所有者の富だ。

自分は搾取される側で何も持っていないと思い込んでいる人も何も持っていないわけではない。例えば、赤ん坊は愛情を生む。そして生きているということそのものが常に奇跡だ。

賛美は感謝だ。感謝は願うこととは違う。感謝に基づく行動は見返りを求めるものではない。果たしてイエスは善意の連鎖を意図して五千人に食べ物を与えたのか、連鎖が起きることを知っていてやったのか、それとも本当に奇跡が起きたのか、今となっては分からないが、私はひょっとすると、単にやれることをやろうとしただけだったのではないかと思う。

いつも機能したわけではないだろう。機能したときのことが歴史に残ったと考えた方が納得がいく。

では、感謝とともにどう行動すればよいのだろうか。それは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということなのだろう。何が正解かは分からないが、必要な時には道が備えられるというのが信仰だと思う。多分、人間は本能的に富を集めるために力を尽くすものなのだろう。旧約聖書を読んでいると、富を集めるためにどうすれば良いか、その成功事例が多く書かれているが、新約のイエスの教えは真逆だと感じる。

※画像はパンと魚の奇跡の絵でメトロポリタン美術館の所蔵品、解釈はいろいろだと思う