モーセ五書の編纂

砧教会のオンライン礼拝で、エレミヤ書の講解が続いている。金井美彦氏の解釈は興味深い。研究者としての能力を尊敬する。

今日改めて申命記改革の話が出て、改めてググってみると『申命記改革』という記事があった。あえて現代的に言い直すと、ヨシアの宗教改革は「美しいイスラエルを取り戻す」という感じのものだ。過去の輝かしい歴史を再整理し正史を確定し正当性を確立したが、結局即位時期から数えて53年でユダ王国は滅亡した。美しいイスラエルを取り戻すことなどできなかったのだが、正史と正当性の主張は文書化されて保存されたので、現代でも自分たちがこの世の支配を神から託されていると考えている人がいる。ナショナリズムは大変恐ろしい。

Wikipediaで創世記の記述を読むと「創世記を含むモーセ五書が現在の形に編集された時期は、紀元前550年前後のバビロニア捕囚期とされる」とある。旧約聖書も文書間で矛盾はある。法は神との契約で最終的な権力は神に帰するという考え方に立っているが、現実には機能しない。機能しないことを神との約束をやぶったからいけないといって約束破りの人たちの責任とする権力が破綻するのは自然なことだ。一方で、正史を編纂し法を書き残すことには意味がある。本来正史は無矛盾でなければならないから、相当な労力・知力を投じて編纂作業を行ったのは間違いない。成立時期はすでに国が滅亡した後というのも興味深い。編纂が終わったとしてもその法が実効性を持つことはないが、いつか正当なイスラエル民族があるべき地位を取り戻すことを夢見たのだろう。創世記の記述は今も影響を与えていて、アダムとイブから始まり、知恵の実を食べたことから苦しみが始まる原罪の思想は典型的なものと言えよう。出エジプトは被支配民族であったユダヤ人がパレスチナで原住民を追い出して独立した物語で、神から与えられた権利としている。もともと住んでいた人からしたらたまったものではない。正史だから、様々な困難があっても強い指導者が立つことで勝ち残っていく筋書きになっていて、やがてメシアが現れて圧倒的な勝利に至るという希望が埋め込まれている。

キリスト教はイエスがメシアだという位置づけにして正史を破壊すること無く民族宗教から世界宗教に変わった。解釈の仕方によれば、ユダヤ人は神から選ばれた民だったが、そのチャンスをフイにしてしまい、本来の教えは民族に限定されていないもので申命記改革の成果である聖典をヒントにしつつ新たな規範を作ろうとしていると言える。私は、悪い話ではないと思う。モーセ五書は知の集約とも言えるもので、神から与えられたものと考えるのは無理があるが、うまくやっていくためのルールとその適用の歴史を学ぶことができる。勝利と敗北の栄枯盛衰の物語として読むこともできるが、対立の構造から脱するためのヒントとして読むこともできる。原始的なルールを取り戻すことを目指す読み方もあれば、反省して新たなルールを作り出していくための参照文献として読む読み方もある。

世の中が荒れると、そこここに対立関係が現れ、正当性を主張する扇動者が現れる。民族主義者であったり権威主義者であったりするが、共通するのは「あなたがたは特別な存在で、他の人々とは違う生来の権利を有している」と煽ることだ。MAGAもそうだし中華思想もそうだ。カトリック教会も例外ではない。全ての結社の構成員が自分たちは他の邪悪な組織とは違うと思いたくなるが、そんなことはない。歴史を振り返る限り例外はない。ただ、不断の努力で専制の罠に堕ちないように形を変えて生き残ることができている歴史もある。

AIの時代になると、聖典だけでなく解釈文書も全部読み込んで善悪を判断させるような推論エンジンも恐らく複数出てくるだろう。あるがままの事実を記録する技術も高度化する。そろそろ平和の確立に向けて新たな取組が始まっても良い時期を迎えているのではないだろうか。

聖書だって、誰かが書き、編集が入って現在に至っているのだ。長く生き残っているから権威があるというのは読むものに宿る先入観に過ぎない。同時に長く生き残っているものには相応の魅力があると考えてもよいだろう。そのまま読むのではなく、良い道を探るヒントとして読めば良いと思っている。