新生活94週目 - 「善いサマリア人」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第15主日 (2022/7/10 ルカ10章25-37節)」。非常に有名な箇所なのに、並行箇所はない。

福音朗読 ルカ10・25-37

 25〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「では、わたしの隣人とはだれですか」は重要な問いだと思う。福音のヒント(1)で『この律法学者の考えの中には「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきものであり、まさか隣人愛の掟の対象であるはずはない」ということもあったにちがいありません』とあるのは示唆に富む。「道の向こう側を通って行った」は私が毎日のようにやっていることだ。良いと思うことでも、全てに手を出すことはできないし、逃げてしまいたくなることばかりである。私は、追いはぎに襲われた人に歩み寄れる気はしない。世の中には、そういう勇気がある人が確かに存在して、そういう善いサマリア人の存在が社会を支えていると思う。立派だと思うし、可能ならそういうことができるようになりたいとは思うが、少なくとも今の自分はそういう存在からは程遠い。37節で律法学者は「その人を助けた人です。」と表明している。素直だと思う。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言うが、その通りだと思ったとしても簡単に実行できることではない。

福音のヒント(2)で述べらているように、イエスは「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」のが善いと奨めていると思う。個人差はあるとしても、当時の律法学者は立派な人達だったと思う。少なくとも、この場所の律法の専門家は、受け答えから誠実な人に見える。専門家として頼りになりそうだ。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」はとても大事なことで、公平、公正を機能させるためには、正しい解釈がなされなければいけない。律法学者や祭司を民衆の敵のように位置づける新約聖書の箇所は多いし、聖書箇所の解釈でもそういう読み方は一般的だが、私はイエスが律法学者や祭司を目の敵にしていたとは思えない。律法の字句を正しく解釈するだけでは足りない。愛がなければいけないと説いていたのだと思う。

私は、今砧教会の牧師と書記を相手取って民事訴訟を起こしている。裁判官と接して驚かされたのは「裁判官が双方の言い分を確かめ、証拠を調べた上で、法律に照らして、判決を言い渡す」(公平な裁判を通じて 国民の権利と自由を守る 「裁判所」の仕事を見に行こう!参照)機能を期待したのに対して、その目線がずっと遠かった点だ。個人差はあるのだろうが、公平に裁定を下すのはその職務だがそれだけでは幸せは来ないと考えているように感じた。決着をつけないことが双方の幸福につながることがあるというのは現実だと思うし、私のように決着がつかなかければ耐えられないと思うような人もいる。裁定に関わるものは、関係者の人生を左右する。大変な仕事だ。

イエスが生きていた時代に法に関わる仕事についていた人たちも、様々な悲喜こもごもを見ていただろう。経験の少ない若者は夢を見るかも知れないが正義感だけで勤まる仕事ではない。仕事につけば裁かなければいけない。もし、記事の被害者が後日知りながら無視した祭司やレビ人を訴えたらどうなるだろうか。見捨てたのは事実だから、罰を受けるかどうかは別にして彼らには罪はある。律法学者は瞬時にそういうシーンを想像できただろう。イエスの「行って、あなたも同じようにしなさい。」は無理ゲーだ。

記事に出てくるサマリア人はただの善人かどうかはわからない。勝手に想像すると、自らがかつて追いはぎに襲われて助けられた経験があるのかも知れないと思う。困っている人を認知できても、それを自分の問題として捉えることができるかはその人が生きてきた過去の影響を受ける。頭でそれが善いことと理解できることと自分の問題として対峙することには大きな差がある。ある人にとっては越えられない壁がある人にとっては障壁などなにもないと感じられるケースがある。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」は耳に痛い。しかし、私が困っている時に、私のことを自分の問題と考えてくれる隣人の存在は生きていく力になる。だから「隣人を自分のように愛しなさい」が本当に意味のある教えであることは論を俟たない。無理をしてもつづかないが「行って、あなたも同じようにしなさい。」という言葉を忘れてはいけないのだと思う。個人差はあっても、訓練を積めば過去の自分より進歩できる可能性はある。そして、本当に必要な時には聖霊は来る。

※善きサマリア人のたとえに関わる絵画は多い。wikimediaからレンブラントの絵を引用させていただいた。