新生活102週目 - 「弟子の条件」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第23主日 (2022/9/4 ルカ14章25-33節)」。今日の箇所にも並行箇所はない。

福音朗読 ルカ14・25-33

 25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

私は、この箇所は、自分とイエスあるいは神との関係は周囲とは関係のないものであると説かれていると考えている。もちろん、自分に近い人に対する様々な感謝の念はある。しかし、自分の欲を含め、本当に必要な場合は全てを捨てる覚悟をするのが信仰告白だとも考えている。福音のヒント(1)には「わたしたちの中にも、そのようなギリギリのところでの二者択一を迫られるような体験があるでしょうか?」と書かれているが、まあできればそんな時期は迎えたくない。しかし、来る時には来る。

人間イエスには、「自分の命」を憎まなければならないその時は来たのだ。ただ、大勢の群衆に振り向いてイエスが十字架を背負ってついて来いと言ったという記事は眉唾だと思う。十字架の事件の前に言われたって何のことだかわからない。十字架の死と復活の知らせを受け取って初めて意味をもつからで、編集者の介入があった気配は濃厚だ。ただ、類似の説教はあったのだろう。それを私は信仰は個の関係で他の誰にも依存しないものだというメッセージだったのではないかと解釈している。無論、その時の事実がどうだったかは今となってはわからない。

28節以降の記事に関する福音のヒント(3)の「本当にイエスに従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もってじっくり考える」は興味深いと思った。個人的には、ギリギリの事態で何が起きるかは事前にはわからないから、前もってじっくり考えることはできないだろうと思うが、他人に依存することなく信仰を守ろうとすれば、そうとうよく考えないといけないと思う。砧教会の金井氏や役員会のメンバーがまさか総会決議に関する事実をごまかすとは想像もできなかったし、真実の通じない状態の中でどう自分の信仰を守ればよいかは正直言って良くわからない。少なくとも前もってじっくり考えておくような事態とは思えないし、自分の信仰が試される機会は2020年6月7日に突然来た。自分が根本的になにか間違いを犯している可能性もあるが、まだ何も解決できておらず、心静かに日々を過ごすことはできない状況が続いている。まあ、常識的に考えればそれを放置している牧師はいかに能力が高くとも改められないなら牧師失格だろう。しかし、それは現実で、現実と向かい合うことなく歩みを進めることはできない。自分が負うべき十字架とは何かを考えなければいけないし、それは他の誰が負うべきものとも異なるのである。もちろん、私だけでなく、大小含めて日々誰もが試みにあっている。私は、必ず出口はあると信じている程度には楽観的だ。ただ、腰をすえて計算できるほどの能力は足りている気はしないから出口にたどり着けない可能性もあるだろう。それでも、他人がどうそれを評価するかは本質的ではない。信じる道を進む以外の選択肢はないのだ。

牧師や神父の説教は、一対多の関係をもつので、どうしても一般的な教になる。それはしかたないと思うのだが、福音は本質的に個に響くものだ。この2年間の新生活で私はともに歩む信仰の友を失った状態で個として向かい合う時期を過ごしている。悲しいことだが、学んだことも多い。決して独りよがりになってはいけないが「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」というメッセージは素直に受け取りたいと思う。

※画像は福音のヒントのページから引用させていただいた。私は、十字架を背負うというイメージをなかなか捉えることができない。いつかイメージできる日が来るのかもしれないが、今は良くわからない。