2023年7月12日の朝日新聞朝刊、毎日新聞朝刊の一面トップ記事は性同一性障害と職場トイレの利用に関する最高裁判断に関するものだ。私は、その判断に概ね賛同している。
一方で、以下のTweetにあるように、判断に納得できない人がいることも変だとは思わない。
職場トイレ、自認する性で使用可 性同一性障害巡り最高裁初判断(共同通信)#Yahooニュースhttps://t.co/Lf8636hvVY
うーん。女性としてはこの判決は怖いし納得できないな。これって結局「身体が男性の人と、一緒のトイレを使いたくない女性は、その職場のトイレを使うな」って話になるんだよね。— しお(汐街コナ) (@sodium) July 11, 2023
また、私は「性同一性障害」という言葉に違和感を覚えている。性同一性障害を障害と呼ぶのは好ましくないと思っている。障碍者を健常者と対比させると、健常者が正常で、障碍者が異常という印象を生む。障害は英語ではdisorderという言葉が使われていて、疾患、病気という意味がある。しかし、gender identity disorder (GID)はDSM-5で2013年に精神疾患分類から落とされており、統計的な分析によれば疾患とするのは適切でないという判断となった(性同一性障害を「精神障害」の分類から除外へ WHO)。性自認と性的指向に相関はないという説も有力で性自認は女性で、性的指向は女性に魅力を感じる人はいる。同時に女性を妊娠させる能力を有している可能性もある。組み合わせた確率は極めて小さいだろうが、それでも耐えられないと考える人がいるのはおかしなことではないが、統計的な事実を学べば、許容できる人は増えるだろう。Wikipedia英語版のGender dysphoriaは参考になる。ちなみに、Wikipediaの日本語版では「性別違和症候群」となっている。病気感がにじみ出ていて、人権感覚の後進性を感じさせられる。
現時点でのトレンドでは、性的同意のない性的行為は犯罪という方向に動いている。人権から考えると適切な方向だと思う。性自認は男性で性的指向が男性に向かっている人は確率的に望む相手から性的同意を得られる可能性は低い。物理的または社会的な力を用いて、自分の欲望を実現しようとしてしまう人は残念ながらいなくなることはない。ただ、それが犯罪として認知され、やってはいけないことと広く認識されるようになれば事故は減るだろう。私は、性的同意の法的、社会的な位置づけを上げていくとともに、統計的な事実分析情報の開示と啓蒙あるいは教育を充実させていくのが好ましい方向だと思う。現実的には、保守派から権力を取り上げないといけないということだ。
特に、知識は重要で、私は子供の頃は、男性であるだけで女性より優れた存在だと思いこんでいたし、性的指向が同性に向かうのは病気だと信じていた。自分に入ってくる情報バイアスがあり、また知識が足りなかったのが原因だと思っている。性的指向や性自認は治療すべき疾病ではないことが分かってくれば、どうやれば共存可能にできるのかを考える方向に意識が変わる。なぜ意識が変わったかと言えば、すべての人に人権があるという考え方に賛同したからだ。小さな被差別体験が私を変えた。
所謂西側諸国では、人権を最上位に置く考え方が強く支持されるようになっているが、本心から納得している人ばかりではない。自分には何か特別な権利があると思いたい気持ちをなくすることはできない。競争に負けるのは悔しいし、自分の思いは通したい。人権を最上位に置くということは、他人の人権を侵害するような自分の思いを放棄しなければいけないということと同じだ。
今回の最高裁判断は、このケースにおいて、原告が性犯罪を犯す可能性が十分低いと考えることができる根拠があり、それに対して組織が行動制限をかける行為が過剰防衛になっているということと理解している。個別の問題に関する判断であって、それ以上のものではない。それを前例として女性のリスクが上がるのではないかと懸念する人がいるのは理解できる。類推されればリスクは上がるだろうが、どの程度上がるのか、むしろ他の施策も含めて下げる方法はないのか、今回の原告のように不利益に苦しむ人とどう共存していけばよいのか考えるのが人権中心の考え方となるだろう。
経産省のオフィスは、かなり安全な場所だろう。無論リスクはゼロにはならないが、公共空間より性犯罪に遭遇する確率はぐっと低いに違いない。リスク観点から見れば、今回の判断は合理的だが、それを不愉快に思う人がいないとも思わない。突き詰めて考えるとQOLとは何かが問われる。経産省の人たちが、原告を排除するよりは、原告が女性専用の場所でも出入りして構わないとする方が良いと考えるのであれば、それで良いのだと思う。ところが、経産省にも新しい人が入ってくる。以前に確立されているルールには従わないわけにはいかないし、以前と違うルールになったことで、離職したいほど嫌に思う人もいるかも知れない。そう考えると、一度決めればそれで終わりと考えるのは適切ではない。
多数決の結果を法律化すれば無理も無理でなくなるという考え方は民主主義にそぐわない。恐らく環境によってルールに変動があり、時間とともに連続的に変化させないといけない。一つ言えると思うのは、人治要素を極小化する方向に動かさなければいけないという点だ。判断を誰かに任せてはいけない。米国で裁判官の構成で判断が変わる現実を見せられ、ロシアで非人道的行為が継続している現実を見せられると、もっと機械的な情報提供が必要になると思う。世論調査的な投票と、事実情報をどう組み合わせて判断していくか、考え直す必要があると思う。薬事承認はかなり厳格なプロセスを決め、恣意的な情報が生成されることのないように洗練化されてきた一方、COVID-19ワクチンの緊急承認のようにデータ検証を終える前に判断が求められるケースもある。緊急承認のような判断が求められることのないように日頃の準備が必要なのだと思う。
今回の判断は、個別の緊急判断の色彩が強い。本質はDEIを可能とする基盤整備だろう。
例えば、博報堂DYアイ・オーの「障害者」「健常者」をどう呼ぶ? どう表記する?で紹介されている取り組みは興味深いけれど、もっと行政のレベルで取り組まれるべきだろう。デジタル庁が強化されて、総務省統計局なども巻き込んで、統計情報に基づいた政策立案のレベルが上っていけば良いと思う。行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律に手をつけないと、どうにもならないような気がする。あわせて、家>人(国>民)を人>家(民>国)に転換しなければ事実理解も進まないだろう。立法府が時代遅れ状態になっている。