砧教会の聖書箇所はラザロの復活だった 砧教会の戦時は続いている。金井美彦氏はその事実に1mmも触れなかったが、佐分利正彦氏に私への配餐を指示した。彼の今の祝祷は私には呪いだ。悔い改めて真実に向かい合っていただきたい。 タグ キリスト教 砧教会の聖書箇所はラザロの復活だった の続きを見る
新生活149週目 - 「「天の国」のたとえ」 人を出し抜く行為に好感を感じえないが、発明には敬意を感じる。わたしはどうもこのたとえに共感できないが、考えさせられるものはある。 タグ キリスト教 新生活149週目 - 「「天の国」のたとえ」 の続きを見る
新生活148週目 - 「「毒麦」のたとえ〜「からし種」と「パン種」のたとえ」 信仰告白を行うのは川を渡ってしまうことと同じで、対岸から見える景色を見ることができなくなる。使徒信条で「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と終末の裁きを信じていると表明しているが、その存在を証明することも裁判の結果を予想することもできない。悪魔が毒麦の種を蒔くという解釈はわかりやすいが、違和感がある。 タグ キリスト教 新生活148週目 - 「「毒麦」のたとえ〜「からし種」と「パン種」のたとえ」 の続きを見る
腐敗した組織を回復させるのは難しい 腐敗した組織は綺麗事を言うようになる。砧教会は最近、「真理はあなたたちを自由にする」という招詞を唱えさせるようになった。それを強制的に唱えさせるということは、自らに真理がないのを告白するのと同じである。あるいは、自分を社会の外において傍観している表明とも取れる。真理を追求しない組織に明日はない。行動の伴わない綺麗事は破滅の源泉だ。 タグ 政治 キリスト教 腐敗した組織を回復させるのは難しい の続きを見る
新生活147週目 - 「「種を蒔く人」のたとえ」 「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」が重い。 タグ キリスト教 新生活147週目 - 「「種を蒔く人」のたとえ」 の続きを見る
新生活146週目 - 「わたしのもとに来なさい」 「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」は、荷があることを示している。一時的に休むことができたとしても、担うべき役割は負わねばならない。天国はそういう場所なのだろう。 タグ キリスト教 新生活146週目 - 「わたしのもとに来なさい」 の続きを見る
新生活145週目 - 「平和ではなく剣を〜受け入れる人の報い」 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」は耳に痛い言葉だ。自分の正当性を証明する行為は自分の命を得ようとする行為となる。それでも自分が考える真実を安易に放棄してはいけないと思う。 タグ キリスト教 新生活145週目 - 「平和ではなく剣を〜受け入れる人の報い」 の続きを見る
新生活144週目 - 「恐るべき者〜イエスの仲間であると言い表す」 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という言葉は、終わりの日の裁きを想像させる。私は、単純にその言葉を信じている。当然、自分は裁きの日に耐え得ないことになるが、それはそれとして、真理の追求を妨げる覆いは取り除くべきだと考えている。この箇所は、聖書を誰でも読めるものにしようとして異端とされたルターを想起させる。 タグ キリスト教 新生活144週目 - 「恐るべき者〜イエスの仲間であると言い表す」 の続きを見る
新生活143週目 - 「群衆に同情する〜十二人を選ぶ〜十二人を派遣する」 弟子の派遣はとても大きなイベントと言える。イエスと弟子が共にいるうちは弟子は常にイエスに依存している状態にあるのに対して、派遣されれば自分あるいは仲間に頼らないといけない。伝道ツアーで言葉が届き覚醒した人もいるだろうが、一番大きな影響を受けたのは弟子たちだと思う。教会も信徒を送り出さないといけない。 タグ キリスト教 新生活143週目 - 「群衆に同情する〜十二人を選ぶ〜十二人を派遣する」 の続きを見る