愛の賛歌

 

コリントの信徒への手紙1の13章は結婚式でも良く引用される箇所でクリスチャンでなくても知っている人は多い。

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

今週の礼拝で、9節からの「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とのつながりの話が出て、愛をキリストと読み替えて読めばよいとの勧めがあった。

子どもの時はこの箇所を軽く受け止めていたのだが、最近は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」が難しいと思っていたのだ。義も真実も視点を変えれば変わるからだ。自分が考える義も真実も不完全なものだから、キリストを倣う事はできても部分的なのは間違いない。

4 キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。ねたまない。キリストは自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 キリストは決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

置き換えたテキストを読んでみると自称クリスチャンである私にはしっくりくる。同時に、愛という抽象概念ではなく人としての実体を持つキリストを想像すると、とても倣う事ができない現状を痛感する。あまりに遠い。

しかし、「完全なものがきたとき」が希望となる。希望があれば、前を向ける。