キリスト教

書評:深井智朗著「プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで」中公新書2017年4月15日再版版

hagi2019/05/11(土) - 16:04 に投稿

書評:深井智朗著「プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで」中公新書2017年4月15日再版版

2018年5月28日萩原高行

砧教会のホームページの作成に関わった

hagi2019/03/25(月) - 08:47 に投稿

昨日、砧教会がホームページをリリースした。

4月になると、キリスト教主義の学校の新入生が教会学校に来る。保護者の人がどのような教会なのかを知ってもらえるようにすることを念頭において構成を検討した。とにかく、さっさと公開することを優先したので、まだまだこれからページを足していく予定だけれど、最低限の情報を掲載して公開した。

私は、砧教会(教会学校)に通い始めてから約50年、途中欠席だらけの時期もあったりしたが、2,000回以上は足を運んでいると思う。教会学校時代からずっと内側にいるわけで、外から教会がどう見えるのかという客観的な視点はなかなか持つことができない。個人的には、研究色の強い教会だと思っている。時に、礼拝の説教が大学の講義のようだと言われる。毎週のように、礼拝説教で、この聖書の箇所にはこういう読み方があるのかと驚きと気づきの機会を与えらている。心地よい救いのメッセージというよりは、進むべき道をそれぞれが探す時間のように感じられる。

王を求めてはいけないと思う

hagi2019/03/04(月) - 11:53 に投稿

最近、多くの地で民が王を求めているのだと感じている。

旧約聖書のサムエル記上8章(新共同訳)には「民、王を求める」という見出しがついている。民族指導者で預言者のサムエルが衰えた時に民が王を立てよと求めた話がでている。預言者なので、その求めに対して神に意見を求めると、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。(中略)ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」と答えが返ってきた。その警告の最後は、「(前略)こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」である。

示唆に富むと思う。

民は、「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と答え、自ら王の奴隷となる選択をした。

王の奴隷となる事を求める声が大きくなると、民主主義は機能しなくなり、公平という理念が意味を持たなくなる。代わりに起きるのは奪い合いだ。仁義なき戦いとでも言えば良いのかも知れない。

愛の賛歌

hagi2019/02/11(月) - 20:41 に投稿

 

コリントの信徒への手紙1の13章は結婚式でも良く引用される箇所でクリスチャンでなくても知っている人は多い。

4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

今週の礼拝で、9節からの「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とのつながりの話が出て、愛をキリストと読み替えて読めばよいとの勧めがあった。

子どもの時はこの箇所を軽く受け止めていたのだが、最近は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」が難しいと思っていたのだ。義も真実も視点を変えれば変わるからだ。自分が考える義も真実も不完全なものだから、キリストを倣う事はできても部分的なのは間違いない。

クリスマス

hagi2018/12/24(月) - 21:32 に投稿

私は、クリスチャンである。

プロテスタント教会は、12月25日の前の日曜日がクリスマス礼拝。そして私の通う教会では24日の晩にイブ礼拝をおこなう。

今年のクリスマス礼拝では、牧師が説教で、人が生きるのに必要な事を3つ挙げた。平和、人権、環境である。安全な暮らしと、差別されない人生、そして地球環境が生存に適したものにならない事が大事だという話だ。

私は、それら3つは一つの事だと思っている。人が人を人として尊重できる社会を作るという事だ。敵に見えている人は同じ人であり、同等の人と見えていなかった人を人として認識できるようになる事であり、未来の人の苦しみを理解できるようになる事でもある。もちろん、そんな日はすぐには来ない。私自身、意見を異にする人をちっとも尊重することはできないし、他人より豊かになりたいという思いから自由になれる訳でも無い。しかし、目指すべき道は見えているのだ。その方向に向かって自分ができる限りのことを少しずつでもやる事はできるのである。

今日は、クリスマスである。生まれて死ぬまでの時間は短い。生きている時にしかできない事をできる限りやるしかないのだと思う。

平和と人権と大域的な環境の改善を心より願う。偏狭な自己中心、あるいは支配欲から自由になれる未来を願う。

テサロニキの坂道からの景色はちょっと尾道のようだった

hagi2018/11/30(金) - 10:48 に投稿

今年は、Coworking Europe Conferenceに参加した機会にギリシャに立ち寄ることにした。新約聖書はなぜイエスが話したアラム語でなくギリシャ語で書かれることになったのかが気になったということもあるし、長い歴史のある地が深刻な経済危機に陥っていることは良く知られていて、今の欧州でそれがどういうことなのかを自分の目で見たかったという事もある。会議後翌週の予定の間の18年11月17日(土)から日月の3日間。初期のパウロの伝道旅行の対象地が現在のギリシャ北部であることから、まずテサロニキを訪問する事とした。初期の教会で現存しているものはない。

現在のテサロニキはギリシャ第二の都市である。都市圏で人口約100万人。世田谷区より一回り大きい程度である。市街地面積は世田谷区の約2倍。遺跡が点在し、港から割とすぐに坂になり、登っていくと城壁跡がある。登ったところから見ると、街が一望でき、もちろん日本の景色とは違うのだが、坂の街、尾道を想起させる美しさだった。

一方で、現実は厳しい。

Co-Community

hagi2018/10/23(火) - 15:52 に投稿

Open SocialというDrupalのディストリビューションがある。そのプロモーション記事に10 Steps for your first year of community buildingがあって、その中にCo-Communityという単語が出てくる。この単語が、突然私の想像力を掻き立てた。

コミュニティは、様々である。Drupalはオープンソースで、その周辺に様々なプロジェクト、コミュニティが存在している。日本のDrupalのコミュニティには醜い覇権争いの歴史がある。同じDrupal好きでも、主導権を取らなければ気に入らなくて自由なコミュニティが育ってくると排斥しようとする力が働いたりするらしい。私は、直接的な被害にあったことはないので、それほど嫌な気持ちになるわけではないが、COREの翻訳作業など、公式となるか否かの判断がうまく機能しないとコミュニティそのものの成長を阻害してしまう。

キリスト教とソーシャルワーク

hagi2018/05/16(水) - 17:07 に投稿

砧教会祈祷会2018年5月16日奨励原稿

聖書:マルコによる福音書12章31節 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

ソーシャルワークの定義The International Association of Schools of Social Work (IASSW)から引用):ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと 解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。社会正義、人権、集団的責任、 および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャルワークの理論、 社会科学、人文学、および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活 課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。