キリスト教

コロナ禍で発見したこと

hagi2020/06/14(日) - 12:30 に投稿

先週、自教会の牧師が会堂から説教をやった。2ヶ月強前にオンライン礼拝を始めてから最初の経験だった。

6月7日はもともと会堂礼拝を再開する予定だったこともあり、奏楽も入ったし、わずかながら会衆も入った礼拝だった。人によって感想は違うだろうが、リモート参加の私にとってはそれまでのオンライン礼拝と全く異なるものだった。会堂で会衆が入っていれば、どうしてもそちらを見て話す。それまでは、PCの画面を見ながら、オンライン参加者を相手に説教しているから、こちらを向いていると感じたが、先週は会堂でやっている礼拝をTVで視聴しているという感触を禁じ得なかった。

今日は思うところがあって、他教会のオンライン礼拝を視聴した。Facebook LIVEで主日礼拝に参加したのだが、会堂で礼拝が行われているのを配信しているのでやはり体験としては参加というより視聴に近い。向き合う関係にはなく、遠くの景色を見せられているだけなのだ。もちろん、説教は説教で、メッセージは届いてくるし礼拝に参加したといってもおかしいとは思わないが、やはり外から見ている感抜群である。

コロナ前から、教会の説教でヨブ記を学んでいる

hagi2020/05/26(火) - 21:52 に投稿

さとなおさんがヨブの信仰でサマリーを書いている。途中で「薄っぺらく言及するといろいろ地雷踏みそう」と書かれているが、私はヨブ記は因果律の否定と、回復という側面があると思っている。

私の通う教会の説教でヨブ記の最初の回の最後のフレーズは、「プロローグの前半は淡々と進むが、彼の悲劇は人間のすべての悲惨を端的にえがいている。その一つ一つを掘り下げて問い、自らに重ねるとき、ヨブの答えはあまりに重いと言わざるを得ない」とある。

パンデミックの現実を振り返ると、別に私やあなたが何をしたかはどう考えても関係ない。確かに、地球温暖化を放置した責任を80億分の1担っているかも知れないし、先行国の責任はもっと重いという考え方もあるが、それで確率的に死に定められるのは理不尽な感じがする。

改めて、中東がずっと戦乱から自由になれないことに思いを馳せる。

オンライン礼拝で考えた

hagi2020/04/03(金) - 16:08 に投稿

この前の日曜日は私の通う砧教会では礼拝堂を閉鎖して、Google Meetを利用して礼拝を実施した。多少、プログラムを詰めたりしたが、基本的には通常の礼拝と同じプログラムで牧師も司会者(私)も自宅で参加した。一応、何とかなったのだが、どうも、これでは足りないと感じたのだ。

ベルリンの壁から30年

hagi2020/03/18(水) - 21:58 に投稿

私は今年60歳になった。今から考えるとその折返しの1990年の1ヶ月強前にベルリンの壁が壊された。

その前に教会に多くの人が集まったのを記憶している人は一定数いると思う。そして、ドイツの統一後しばらくして、教会に集まる人は去っていったという。そのストーリーが私は好きだ。

Cov-SARS-2は、東西対立の人間関係ではなく、むしろペスト時代を思い起こさせる事象だ。科学的に医療サービスで乗り越えることしかできないと思うが、現在の科学技術ではまだ十分に心を平安に保たせる力は足りていない。

キリスト教に限らず、恐らく多くの宗教が教勢を伸ばすだろう。本物であれば、早く教勢が落ちることを祈るのが良いのだと思う。同時に、教会も金がなければ存続できない。倒れきらない程度で良いが、支持者は必要としている。

正義をそそのかすもの

hagi2020/02/16(日) - 17:13 に投稿

ヘブライ語の普通名詞のサタンは「道をふさぐもの」だと書かれている。あるいは訴える者という意味があるらしい。今日、ふと、サタンとは正義を説くものではないかと思い当たった。もう少し言い換えると正義をそそのかすものと思ったのだ。

心の内面は分からないが、相模原障害者施設殺傷事件の被告はあの殺人は有意義だったと主張している。本当に内面は外からは分からないが、彼は本心から正義の行為と考えているらしい。信じ難いが、彼にとっては同じ人間とはどうしても思えないと今でも考えているようなのだ。

一方、中には被害者が殺害されたことで、その家族が楽になったと考え、内心で良かったと思っている人もいると思う。障がい者に限らず介護は過酷となるケースは少なくないから、誰かがお亡くなりになった時に、その死がご家族のためにある意味で良かったと思うことは私にもある。そういう意味では、彼の正義は、その思いの延長線に位置づけることができると思う。

正義は恐ろしいものだ。本当に正しい事が何かは別にして、誤った正義が心に入ってしまうと、道を誤ってしまう。そして何が正しいかは、実は誰にもわからないのだ。

リガで物乞いとすれ違った

hagi2019/11/24(日) - 17:43 に投稿

マタイによる福音書に裁きの記事がある。

25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

一週間ほど前に3年ぶりにラトビアのリガを訪問した。3年前は雪の降る中でロシアから流れてきたという体の大きい人に少しで良いから恵んでくれ、温かいものが食べたいのだ、と言われてコインを渡した。嘘には感じられなかったからだ。

死後の世界

hagi2019/10/14(月) - 21:36 に投稿

死後の世界の存在は証明できない。しかし、一生、死んだらどうなるのだろうという想像をしたことの無い人は恐らく皆無だろう。

死後の世界の存在は、信仰の問題でもある。どこかで死後の世界はあるんじゃないかと思えば、天国を保証する宗教にすがりたくなるのも分かる。私はキリスト教徒であるが、キリスト教には、かつて免罪符、あるいは贖宥状で、天国を金で買えると扇動した歴史がある。

お布施を積んでも、賽銭をはずんでも、多額の献金を支払っても、あるいは国か信仰のために命をささげても、そんな行為で天国にいける道理が無い。死後の世界との間には断絶があるのだから、この世の価値観がそのまま通用する訳が無い。死を美化してはいけない。

第二次世界大戦の反省で世界聖餐日が生まれた

hagi2019/10/06(日) - 14:18 に投稿

今日10月の第一日曜日はキリスト教の世界では世界聖餐日である。

『世界聖餐日を覚えて』という記事で「世界聖餐日は、1946 年に、WCC の前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐を通してキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。」とある。

ググるまで気が付かなかったが、そう言えば、前に聞いたことがあったような気もするが、全然意識していなかった。

パトモス島

hagi2019/09/23(月) - 15:17 に投稿

パトモス島はトルコの傍にあるギリシャの島。新約聖書最後の書物「ヨハネの黙示録」はそこで書かれたとされている。作者はその島に幽閉されていたらしい。

所属教会の聖書研究会がしばらく「ヨハネの黙示録」に取り組むことになったので少し調べて見た。