自己責任あるいは自業自得

過去のコンタクトを復旧できる範囲で見直している。記念として取っておいた名刺には、Scott G. McNealy氏やSteve Ballmer氏のものもあった。また、自分の名刺の未使用分など100種類ほどが見つかった。もちろん、離職前に挨拶に行ったりして離職後にも関係を続けたいと断った人以外についてそのコンタクトを使ったことはない。今は、SNSやLinkedInがあるので、検索して見つかって新たにコンタクトを取れば良いだけだから、どうせ名刺など直近で交換したものを除けば使うことはない。この度、それらの記念品も処分することにした。

1,000枚を軽く超える記念品を眺めていて、思い出すことのできない人も半分以上いる。研究会の懇親会や交流会、たまたま一度だけあった人などよほどのことがなければ記憶に残らない。しかし、一度で強烈な印象を残した人もいるし、仕事が変わってビジネス上の関係がなくなっても、10枚を超える異なる名刺を受領した人もいる。中には他界した人もいるし、疎遠になった人も少なからずいる。

思い出せる人については、短時間でも記憶を呼び起こして振り返った。そうしたら、いかに自分が未熟であったか、今も未熟であることを思い知らされたのである。丁寧に接する意思はあるのだが、残念な事に配慮に欠く発言をしてしまったことばかりを思い出す。自分の見ている視点から意見を述べ、悪意がなくてもたくさんの人に不愉快な思いをさせてしまった。

私は、小学校のときにもいじめにあった事がある。中学時代からも持ち物を隠されたり、持ち物に傷をつけられた経験がある。物理的に不快な圧力を受けたこともある。歳を重ねてくると見えてくることもあり、いじめられるにあたって私の行動がその行為を誘発している事にも気がつく。自業自得である。自分がもっと上手に立ち回る事ができれば他人に不愉快な思いをさせることも減り、自分が不快に思う回数も深刻度も減ったのではないかと思う。意識せずに、いじめる側に加わってしまったこともある。決して私は無垢ではない。

ビジネスの場に出るようになって、特に新入社員として企業に入るときには、徹底的に空気を読もうと自分に誓った。集団の中で生きていくのはそれが必要なことだと思ったからだ。しかし、それだけでは足りない。協調しながらも自分を差別化できなければ、競争に勝ち残れない。競争に勝ち残れなければ自分の能力を活かす機会もおとずれない。だから、何でも合わせるだけで済みはしない。私は仮説を立てたり、未来を予想するのが好きだから、最初はちょっとずつ、現在の常識とちょっと違う未来予想を表明することを始めた。幸運にも、上司や先達の目に止まり、自分の機会を発揮するチャンスを何度も貰った。全部が成功したわけではないが、誇らしいと思う成果を上げたこともある。

小さな成功でも、成功体験は慢心の源泉となる。私は、何度も慢心の罠に自ら落ちた。相手の発言を虚心に受け入れずに自分の思いを押し付けた経験は最近の失敗例に至るまで1,000回ではとても足りないと思う。自分がうまくいかない時は、ほぼ間違いなく自分の行動に原因がある。逆に、上手くいく時は、ほぼ幸運のせいだ。たまたま、自分の欠ける能力を有している人からの協力が得られたとか、たまたま風が吹いたとか、そういうことだ。

かつて会った人たちの記憶を呼び戻すと、ちゃんと聴き取れていればもっと共に良い未来を作れていたのでは無いかと思わされるシーンは多い。

視点を変えると、逆のシーンもある。もし、あの時、彼が私の言うことを聞けていれば未来は変わっていたのにと思うこともある。実際には本当に良い方向に未来が変わっていたかはわからないし、結果として起きなかったことに執着していてもしょうがない。しかし、私はもちろん、誰にでももっと良い未来を作れる余地はあるだろうと思っている。自分に対しては、自己責任と自業自得と自戒するしかない。同時に、他人に対して自己責任論を押し付けてしまえば、未来は暗くなる。思っていることは自由に言えたほうが良いが、それが暴力になることも珍しいことではない。

結局は、今できると思われる最善の事をやろうと努力する以外の道はない。大人への道のりは果てしなく遠い。