ワルシャワには戦争の気配がまだ残っているように思う

hagi に投稿

最近、この写真を自宅のWindowsの背景画面にしている。

ヨーロッパの国に行くとしばしば感じるのだが、大きな川の向こうとこちらでは景色ががらっと変わることがある。ヴィスワ川はポーランド・ソビエト戦争の地であり、ワルシャワを南北に流れている。東側はソビエト、西側はポーランド。そのような象徴的なケースだけでなく、川は境となる。

欧州には、様々な民族がいて、言葉も多様。言い換えれば、すぐ近くに住む人たちの間で会話が成立しない社会である。最近、関わりのあるバルト三国もそれぞれ小国で、言語系が異なり、バルト三国間では相互に会話が成立しない。英語かロシア語を使って会話するしかない。ベルギーも広くは無い国の中で複数の言葉が話されていて、違う言葉を話す同胞の間には一定の緊張感がある。関西弁と東京の言葉の差のようなレベルではない。

一方で、語系まで異なる言葉の統一などできるはずもなく、平和に暮らすためには多様性を許容しないわけにはいかない。欧州の人達の成熟感は、ある種のあきらめを含めた多様性容認の姿勢に根差すもののように思う。アメリカも特にニューヨークでは多様性の高い社会だが、英語を話すという言葉の標準化はかなり徹底されているので、欧州より多様性の許容度は低いように感じる。もちろん、異論はあるだろうが、私にはそう感じられるのだ。

中国や日本は言葉の強要という意味では、かなり独裁指向で私にはかなり未熟に感じる。特定の言語を強要する文化は、差別的な色彩を帯びやすい。日本は島国だからしょうがないと思う所もあるが、中国の民族弾圧のひどさを見るにつけ、日本が強国になったらこんなものではないだろうと感じてしまうのである。韓国を旅した時は、年長の方が流ちょうな日本語を話せることに驚いたが、日本語を話さなければ生きづらかったからに違いないと思う。保守派には日本がすばらしいからだと言いたい人もいるだろうが、それはとんでもない勘違いだ。そういう意味では今のアメリカも同じ穴のムジナと言うべきだろう。

改めて、川の向こう岸とこちら岸を思う。

民が成熟できれば、川の向こう側でもこちら側でも異なる言葉を話したり、一目で自分とは出自が違う人であっても共存できる社会は作れるのだと思う。都市化と言うべきかもしれないが、私はそういう未来が望ましいと思っている。川が境にならない社会は良い社会だと思う。