古い家を出て新しい旅に出るといって2週目。福音のヒントを参照して過ごしている。第27主日の聖書箇所は『マタイによる福音書21章33-43』。
有名な葡萄園のたとえである。このページの著者は、「特別な指導者がいなくても、次の日曜日のミサで読まれる福音の箇所を前もってだれかと一緒に読み、分かち合い、ともに祈ることができたらすばらしい。そんな「聖書の集い」のためのヒントです。」と書いていて、私は最近指導者を失ってしまい、さらに古い家を出てしまったので、共に学ぶコミュニティもない。だから、まずは一人で読み考えをまとめるところから始めている。
聖書の箇所は別に難解ではない。
21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。
ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、 その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、 これを農夫たちに貸して旅に出た。34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、 僕たちを農夫たちのところへ送った。35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、 一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、 農夫たちは同じ目に遭わせた。37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』 と言って、主人は自分の息子を送った。38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。 さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39 そして、息子を捕まえ、 ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、 この農夫たちをどうするだろうか。」41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、 ぶどう園は、 季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、 まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/ これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/ わたしたちの目には不思議に見える。』43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、 それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。 」45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、 イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。 群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
幸田氏が書いているように家の主人は神でで農夫達はユダヤ人、息子はイエスという解釈がキリスト教的な解釈としては自然だろう。5つの福音のヒントが提示されていて、私は5番目の「主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと勘違いしてしまった」というメッセージが印象に残った。広くは地球、自然環境を想起する。神という表現を使うか否かはおいておいたとしても、実質的には自然環境は人類にとって与件であり、自分たちで作り上げたものではない。その環境を住みやすいように改変するのは自由である。そういう意味では、人類に管理がまかされていると解釈することもできる。自分たちだけに都合の良い形に相当環境を作り変えて来たけれど自然の包容力は大きかった。大きかっただけに自然に対する恐れ、与件であるという認識を忘れ何をやっても良い、言い換えれば自然は自分の所有物だから何をしても良いと勘違いしてしまっているのだと思う。もう少し狭く考えると国だ。主人を神とするか、民とするかという思想上の違いはあれ、政府は主人からゆだねられ、管理をまかされた国と国に属するものを、政府の所有物だと勘違いしてしまっているように見える。民主主義国であれば、主人は民であり、政体は主権者から管理を委任された存在であり決して彼らの所有物ではない。王権神授説であっても国は権力者の所有物ではない。もちろん、世界はバチカンの所有物ではない。
一番最初の勘違いは、管理を任されたものが、自分はルールの外側にいると考えてしまうところから始まると思う。最近、聖職者の犯罪が糾弾されるようになったが、これも管理をまかされた人々を自分の所有物だから自由にして良いと勘違いしている事例だろう。もちろん、分かっていないわけがなく、自分の支配が及ぶという油断が人を誤らせるのである。一度堕ちてしまうと、中々元には戻れない。そして、恐らくすべての人が多かれ少なかれ、自分の力が及ぶ範囲を預かったものと考えることができず所有物と考えてしまって罪を犯す。罰を伴うかは別にして罪は犯してしまう。
キリスト教は神殺しと神殺しの無効化(復活)、罰の許しという構造で成り立っている。今の知識で、旧約聖書の記述やイエスが生きていた時代を見れば、スケールは小さい。カナンの地は広めに捉えて1,000km四方程度で実質的には、東西100km、南北200kmと関東地方程度。地球規模で見れば、0に等しい。しかし、構造は普遍的で、事が起きてしまわないとほとんどの人は自分がやっている事が神殺しであることに気がつけないのである。言い換えれば預かっているものに対する責任の自覚を促す警告者を見殺しにしてしまう。何が本物かはわからないが、自分の所有物だと勘違いしていることを糾弾されるとヒステリーを起こしてしまう。誰も、もちろん私も、その罠から逃れることはできない。自分を誰とも違わない一つの存在として認めることはできないのである。
第二朗読はフィリピの信徒への手紙。今のギリシャ、テサロニッキから約150kmの距離にある。今は、遺跡が残っているが特別な場所ではないと思う。2018年にテサロニッキ、アテネを訪問した時に感じたのは、パウロが伝道した地は、その後神の国の地上のプロトタイプとして輝き続けるわけではなかったということだ。「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」は、どういう意味をもつのだろうか。
恐らく、神の国は場所に依存するものではない。救いはどこかにあるわけではなく、どこにでも誰にでもおきることなのだと思う。