新生活3週目 - 婚宴のたとえに学ぶ

hagi2020/10/11(日) - 11:45 に投稿

古い家を出て新しい旅に出るといって3週目。福音のヒントを参照して過ごしている。年間第28主日 (2020/10/11 マタイ22章1-14節)  。

新共同訳ではマタイによる福音書では『「婚宴」のたとえ』という見出しとなっており、福音のヒントで並行記事として挙げられているルカによる福音書の14章では『「大宴会」のたとえ』となっている。福音のヒントでもその差異に言及しているが、Webで検索すると『「大宴会」のたとえ、マタイとルカの解釈の違い』記事もある。共通点としては、宴会に招待したが、本来招待されるべき人たちは来なかったので、手当たりしだいに人々を招いたというところだろう。解釈としては、神がイエスを送って選民である救いの本質の言葉でユダヤ人を招いたが、彼らは来なかった。だから、選民以外の人達を招くことにした。という話で、ユダヤ教とキリスト教の神は同じだが、キリスト教の救いは選民に留まるものではなく、むしろその福音を受け入れないで頑なにユダヤ教の教えを守っていると救いに預かれないという教えと考えるのが自然だと思う。

今回は、4つの福音のヒントの中で、これに注目したいというものが見当たらなかったので、どれかにこだわるのではなく、福音書間の比較から学ぶ姿勢を踏襲した。マタイによる福音書は福音のヒントの当該記事に聖書箇所が入っているので、ここではルカによる福音書の記事を引用しておく。

14:15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の内、最初の3つは共観福音書でイエスの伝記とされている。ヨハネの福音書は教義のテキストらしい。聖書を読み始めると最初に4つの福音書があってついで使徒言行録という文書があって、その後ローマの信徒への手紙など書簡が収録されている。最後はヨハネの黙示録だ。常識的にマタイによる福音書から読み進むことになるが、読み込んでいくとこの3つの共観福音書の記載内容は結構食い違っているのである。改めて引いてみれば、「マタイによる」とあるように著者の解釈が入っていることが前提になっている伝記なので、本当に何があったのか、イエスはどういう言行だったのかは自分で組み立てなくてはいけない。磔刑前のシーンなど、弟子が寝てしまった部分の記載などがあるわけで、誰も記録できた人がいないはずなのに記述がある記事は少なくない。言ってみたら「たぶんこうだったんじゃないか劇場」である。ルカによる福音書と使徒言行録(イエスの死後のキリスト教黎明期の記録)の著者は同じで、どちらもテオフィロ氏に対する報告書の形になっている。テオフィロ氏は死刑となったイエスの死後に入信したパウロの弁護人だったという説もある(wikipedia 日本語での記載は見当たらず)。セットで裁判用の資料だった可能性もあり、なるべく事実に忠実であろうとしているのではないかと思われるふしがある。パウロの弁護に有利になるようなバイアスが入っている可能性もある。現在の聖書学では、2番目のマルコによる福音書が一番古い書物らしい。マルコによる福音書では、もともとはイエスが葬られた後、安息日が明けて墓参りが可能になったので言ってみたら墓が空だったという記述で終わっていたとされている。その後、イエスが現れて弟子たちに会ったという記述は追記らしい。事実は分からないが、私個人は、墓が空だったという記述でイエス伝は終わりという書物に好感を持っている。41年前に入信した時はヨハネによる福音書がキリスト教のテキストとして最もふさわしいと思っていた。書き出しが「初めに言があった」で、人間イエスの伝記ではなく、神の子イエスの生涯として書かれていたからである。解釈全開モードで読みやすい。今回の婚宴のたとえは、マタイとルカに出てくる記事で、マルコとヨハネには出てこない。福音のヒント(3)では「ルカでは貧しい人や障害者が招かれるところに特徴があります」とある。ルカはキリスト教あるいはパウロが教える教えは弱者にやさしいものだということを強調したかったのかも知れない。私は「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を招いてもまだ席があります」という書きぶりが好きだ。ルカの解釈では神はまず虐げられた人を大事にする。そして、虐げられた人を選んで救った後にまだ強者を招く余地があると主張していると取れる。そういう社会システムが構築できたら望ましいと思った。

パウロの信仰は書籍にいろいろな形で収録されていて、教義として取ることもできるし思想として咀嚼することもできる。ルカはその視点にあわせた解釈をしている感じがする。パウロは迫害するものだったわけで、「まだ席があります」の対象者の最初の1人だったのかも知れない。

蛇足となるが、共観福音書のwikipediaの解説は日本語版より英語版の方が充実していて諸説のリンクもたくさんある。参照方向などの議論が興味深い。

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