今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、年間第32主日 (2020/11/8 マタイ25章1-13節) 。
「十人のおとめ」という表題はWikipediaでは「十人の処女たちのたとえ」という項目で紹介されている。聖書の箇所はとくに難しい感じはしない。
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
ぱっと読んだ感じでは、油断するなというメッセージに見える。文字通り「油断」の話でもある。私は、この「十人のおとめ」が「油断」の語源かと思っていたが、改めて調べてみると、どうやら油断の語源は「王が臣下に油を持たせて、一滴でもこぼしたら命を断つと命じた」という話から来ているらしい。単なる勘違い、思い込みだが、現実世界では、つい油断してあとから後悔するシーンは山ほどある。私自身、なぜ、私はこの大事な段取りをサボってしまったのだろうと後悔したことは相当な回数にのぼる。天の国はあると信じてしまった以上「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」というメッセージは重い。これまでの油断は回復可能なダメージしか与えていないが、本当に大事な準備を怠れば致命的である。キーメッセージは明々白々で、怠りなく準備を常に整えておきなさい、という教えにほかならないと思う。
福音のヒント(1)では、この十人のおとめは、花嫁のBridesmaid(花嫁の世話役の友人?)だと読めるようなことが書いてある。たとえ話だから、委細を問うてもしょうがないと思うけれど、もしBridesmaidsだとすると花嫁は誰なんだと不思議になる。それはさておき、ユダヤ教の結婚習慣を知らないので、福音のヒント(1)の解説は参考になる。検索して見ると、「ユダヤ教の結婚式」という記事があった。強烈な家制度を感じる行事で不自由感があるが、もう一歩考えてみると「両家の母親が皿を割る」、「ベールを下げられた花嫁のもとに、両家の父親がひとりひとりやってきて、祝福を捧げる」は家からの独立の承認とも取れる。一方で、婚姻の席=花婿の家と考えると、家に入る、あるいは新しい家を始める印象が強い。Bridesmaidはその家の構成員ではないから、単に婚礼の席に出られなかっただけで、あまり致命的な間違いの感じはしない。残念だったね、とは思うが、その経験を経て、自分の番が来るまで油断なく備えておけばよいだろうと思う。そして、賢いおとめもまだ自分の順番は来ていないのだから、これでハッピーエンドではない。
改めてこのたとえを考え直すと、ひょっとすると天国というゴールは無いと読めなくもない。天国があろうが無かろうが、やるべきことをやりなさいというメッセージにも取れる。自分の番が回ってきた時に何が起きるかはこのたとえでは触れられていないのかも知れない。
この箇所については、マタイのみで並行箇所がないという考え方と、ルカによる福音書12章35節からの「目を覚ましている僕」をあてる考え方もあるらしい。
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
こちらは花婿の父が主人で、婚宴から帰ってきた時の話かも知れない。
蛇足になるが、婚宴が晩に開催されるという話に触発されて、日の区切りについて再考してみた。ユダヤ教では日没が一日の区切りとなっている。時刻に厳密さを求めなければ、日没とか、夜明けとかを日の区切りに当てるのは誰にでも分かるので合理的だ。ついでに、日没の時は、多数の人が起きているので区切りとして具合が良い。日没までにやらなければいけないこと、日没後に始めることを決めておけば守りやすい。時刻に正確性を求めるようになると、正午を時刻の起点にするのが合理的になる。日の出や日没は季節とともに変わるが、太陽の最高点はほぼ24時間毎にやってくるので、基準点として使いやすい。一方で、日の出や日没と違って、正午を自分で簡単に知る方法はないから、正午を一日の区切りにすると、活動時間中に日付が変わると具合が悪い。そういう意味で、人が活動していない正午と正午の間である時刻を0時とするのは理にかなった取り決めと考えることができる。
日の出や日没は深夜や正午と違って天気さえ良ければ概ね何にも頼らなくて特定できるから生活上の意味、重要性は変わらない。時計に支配されない生活を送っていれば、そちらの方が区切りとして有用だと思う。科学的に考えるときには、今の0時は合理的、かつ有用なのだが、生き物としての感覚に素直に従う時は日没を起点とするのをバカにしてはいけないと思う。私は、近年しばしば晩秋を北欧で過ごしている。3時には日暮れを迎えるので、今日はもう終わったと感じる。日本で過ごす時より夏冬の感覚的な落差が大きくて不思議な気分になる。
科学的思考と体感を対立する概念として捉えると危ない。
画像は、一昨年のテッサロニキ。かなり荒れた街だった。ある時、文明、文化が花開いた街がずっと栄え続けるわけではない。目を覚ましているということはどういうことなのか、これからどうしなければいけないのか。単純な解はないが、自分の能力の限り愛ある行動を行う以外の道は無いのではないかと考えている。