新生活8週目 - 「タラントンのたとえ」

今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、年間第33主日(2020/11/15 マタイ25章14-30節)  。

タラントのたとえは、自由学園の普通科に入学した春の礼拝で学んだ記憶がある。文語訳だった。

また或人とほく旅立せんとして、其の僕どもを呼び、之に己が所有を預くるが如し。各人の能力に應じて、或者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントを與へ置きて旅立せり。五タラントを受けし者は、直ちに往き、之をはたらかせて他に五タラントを贏け、二タラントを受けし者も同じく他に二タラントを贏く。然るに一タラントを受けし者は、往きて地を掘り、その主人の銀をかくし置けり。久しうして後この僕どもの主人きたりて彼らと計算したるに、五タラントを受けし者は他に五タラントを持ちきたりて言ふ「主よ、なんぢ我に五タラントを預けたりしが、視よ、他に五タラントを贏けたり」主人いふ「宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅なる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の勸喜に入れ」二タラントを受けし者も來りて言ふ「主よ、なんぢ我に二タラントを預けたりしが、視よ、他に二タラントを贏けたり」主人いふ「宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅なる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の勸喜にいれ」また一タラントを受けし者もきたりて言ふ「主よ、我はなんぢの嚴しき人にて、播かぬ處より刈り、散らさぬ處より斂むることを知るゆゑに、懼れてゆき、汝のタラントを地に藏しおけり。視よ、汝はなんぢの物を得たり」主人こたへて言ふ「惡しくかつ惰れる僕、わが播かぬ處より刈り、散さぬ處より斂むることを知るか。さらば我が銀を銀行にあづけ置くべかりしなり、我きたりて利子とともに我が物をうけ取りしものを。されば彼のタラントを取りて十タラントを有てる人に與へよ。すべて有てる人は、與へられて愈々豐ならん。されど有たぬ者は、その有てる物をも取らるべし。而して此の無益なる僕を外の暗黒に逐ひいだせ、其處にて哀哭・切齒することあらん」

当時は、自分は優秀だと思っていたので、当然「五タラントを受けし者」に自分を重ねて読んだ。あるいは、神の側に自分の意識を重ね合わせていたかも知れない。与えられた才能を必死に活かせば、さらに「されば彼のタラントを取りて十タラントを有てる人に與へよ」とあるように追加の才能も与えられると思った。与えられた才能を活かせない人はクズだと考えた。不遜である。

ビジネスの世界では、「五タラントを受けし者」にさらに機会を与えよというのは、短期的には有利に働く。仮に才能を食い尽くしてでも、一定の期間内に成果を出そうと思えば、できるだけ少ない人数の(その軸で)優秀なメンバーを集めれば効果的である。

「タラントのたとえ」は、弱肉強食の世の現実を記しているように取ることができる。

福音のヒント(1)では、『この「タラントン」のたとえは明らかに、世の終わりまでわたしたちがどう生きるべきかを問いかけるものです』とある。聖書の教えだから、或人が神で其の僕どもは私達を示すのは明らかで、私達は、能力に応じて金あるいはこの世で金に例えられるような何かを任されていると考えるが適当だろう。『世の終わりまでわたしたちがどう生きるべきか』は与えられたものを活かして、努力して高みを目指せと書かれているようにしか読めない。最後の部分を読むと、努力しなかった人は、捨てられると書かれているように読める。それが現実なのかも知れないが、どうも違和感が残る。どこが福音なのだろうか。

福音のヒント(3)で、捨てられてしまった人に触れて『前の二人と比較して自分には少しだけだ、と考えてしまったからです。しかし、人との比較は神の前ではどうでもよい』と書かれているのは僅かな救いのポイントのように感じられる。頭の良い人もいれば、腕っぷしの強い人もいる。病気の人もいるし、肌の色もさまざまだ。何か評価軸を選べば、その軸では必ず平均以上の評価を受ける人と平均以下の評価を受ける人がいる。他人との比較は神の前で意味を持たないという解釈は、このタラントのたとえの部分からは直接は拾えないが、考え方としては受け取りやすいものだと思う。

このたとえ話は本当にあったのだろうか。並行箇所としてあげられているルカ19章の「ムナのたとえ」は記述に違いが感じられるし、マルコにはない。何らかのイエスの発言が起源になっているとは思うのだが、今読み直すと、本当にイエスは「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言ったのか疑問に思う。

現実社会に目を戻すと、現在は強者総取りモデルが幅を効かせている。相当な努力の結果として、金持ちは多くの金を手にいれて、人口の1%以下の人たちに大半の資産が集まる状態が起きている。半数は当初与えられた1タラントも奪われてしまったような状態に苦しんでいると考えてよいだろう。一方で、SDGsのように強者総取りモデルから共生モデルに移行しようという動きもある。その力も決して小さなものではない。短期的には強者総取りモデルが機能するとしても、少し長い目で見ると、違うモデルに移行しないと持続性がない。私には想像もつかないが、従来とは異なる「タラントのたとえ」の新解釈が生まれてきても良い時期なのではないかと思う。

ふと思い出したのは、ヨハネによる黙示録の記事だ。

3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。3:22 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」

「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」は、神によるこの世の強者へのメッセージととって良いだろう。多くのタラントンを与えられたと勘違いしているだけで、実は本当に預かっているものを放置しているのかも知れない。

私が受洗の時に選んだ聖句は「3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」だった。その時、私は依然として自分は優秀だと思っていたが、それが幻想に過ぎないことにも気づいていた。謙虚に卑下すること無く、真実を追求しつづけたい。

画像はヨハネによる黙示録の記事に出てくるラオデキヤの遺跡、「出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)」。