新生活10週目 - 「目を覚ましていなさい」

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今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は待降節第1主日(2020/11/29 マルコ13章33-37節)。アドベントに入った。新型コロナは猛威をふるい昨日、一昨日は東京でも500人を超える感染者が出た。人口10万人あたりの14日間累積数は約41と欧州が7月に移動の自由の目安とした16の2.5倍に達している。ざっくり解釈すれば2,500人に一人感染者がいるとでも考えておけば良い。30人の集会に参加してウイルスに暴露する確率は1.2%程度。30人規模の集会が100箇所で開催されればどこかではクラスターが発生する計算である。公衆衛生的に考えればこの時期に会堂での礼拝を開催するのも参加するのも反社会的行為と等しい。4週後にはクリスマスが来る。クリスマス礼拝も毎年のようにやればどこかで犠牲者が出る。一方で、時と場所を共にして礼拝を持ちたいという気持ちは大きい。私は、今年母教会から家出したので今は通うべき教会がないが、クリスマスくらいどこかの教会の礼拝に参加させていただきたいという気持ちはある。しかし、冷静に考えればそれは自分も他の参加者も危険にさらす愚かな行為だ。別の方法を探った方が良い。

福音のヒントの最初の部分では

教会暦と聖書の流れ

 「待降節」と訳されたラテン語の「Adventusアドヴェントゥス」(英語ではAdvent)は、本来は「到来」を意味する言葉です。2000年前にイエスが世に来られたことを思い起こしながら、栄光のうちに再び来られることに思いを馳せます。この二重の意味での「到来」とそこに向かう人間の姿勢としての「待望」がこの季節のテーマです。第一主日には毎年、年間の終わり(終末主日)のテーマを受け継いで「目を覚ましていなさい」という、終末に向かう姿勢を指し示す言葉が読まれます。3年周期の主日のミサの聖書朗読配分はB年が始まりました。今年は主にマルコ福音書が読まれる年です。

と書かれている。私はカトリック教会のルールをほとんど何も知らない。福音のヒントを読み始めるまではA年、B年、C年という3年周期も知らなかった。その形式的なリズムは長い歴史の中で確立されてきた望ましい形なのだろう。プロテスタント教会やその流れに近い学校で育ったものとしては、何となく背広ネクタイの世界とTシャツジーパンの世界のような違いを感じている。しかし、50年もプロテスタントの世界にいたのだから、この先どれだけ生きられるかわからないが、許されるのであれば3年周期を1順する程度の期間、カトリックに接してみるのも良いのではないかと感じている。同じところにずっといるのでは見えないこともある。同じところに長くいるから見えてくることもある。

今日は聖句の部分も福音のヒントをそのまま引用する。

福音朗読 マルコ13・33-37

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕33「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。34それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。35だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。36主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

この箇所の後ろには最後の晩餐、逮捕、処刑、空の墓の物語が記されている。言い換えれば、この部分がイエスの最後の説教の記録である。聖書を読む人の大部分は現実世界で生きている。修道者であってもこの世で生きていることには変わりはない。修道院ビールを醸造していたりしていて額に汗して稼いでいる。全ての人は働き手であると言って良いだろう。私には聖書の箇所に

  1. 神はこの世を創造して無干渉状態に入った(初期化した)
  2. ただその前に人々にそれぞれの仕事を割り当てて責任をもたせた(プログラムを走らせた)
  3. 神は時が来れば再び干渉する(モニタリングして気に入らない系があれば強制停止する)

と書いてあるように読める。その昔の人がどう思ったのかはわからないが、現代には、ビッグバンがあって時が動き始め、地球は辺境で、恐らく地球以外にも様々な生命体が生まれていて、エントロピー増大に伴って時もやがて止まるという世界観がある。近い将来に時が終わるということは想像できないが、人の死や人類の滅亡、地球環境の崩壊程度のことは宇宙規模で考えたら些末な事象であると考えるのは自然なことだろう。一方で、目の前の現実としては、飲み食いを含め生命維持活動を行えなければ自分という個体は終わる(死ぬ)。

預言者は、暴走を警告する役割を担っているのだろう。私達一人ひとりは自分にどのような仕事が割り当てられているのかは分からない。たった一人の人の行いで、人類が滅びることもあるかも知れないし、無限の広がりの中で何をやっても本質的には何ら世界への影響は与え得ないという考えもある。現実社会では、最後は自分で考えて行動していく以外の道はない。何を善しとするかは最終的には個人の判断に任されている。

だから、この「目を覚ましていなさい」は、「私達一人ひとりは自分にどのような仕事が割り当てられているのかはさやかには分からないけれど、私達一人ひとりには全て神から仕事が割り当てられている、だから神が自分に与えた使命を追求し続けなさい」と読み替えて良いだろう。イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言ったと書かれている(新生活5週目 - 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」で言及)。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は実は何も言っていないのと同じで、よく考えて行動しなさいと言っているのにすぎない。ただし「隣人を自分のように愛しなさい」はもう少し限定的である。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」という話になるとより具体的に捉えることができる(新生活9週目 - 「王であるキリスト」で言及)。今年の具体的な課題に照らせば「砧教会の金井美彦や役員を自分のように愛しているか」という問いになる。なぜ私は母教会から家出したかという問いでもある。やはり最後は自分で考えて行動していく以外の道はない。自明な答えなど存在しない。自滅の道を警告するのは愛か否かという問いにも近い。自分が類似の警告を受けた時に愛されていると思えるかという問いでもある。

史実はどうあれまもなく復活した主であり人間であったイエスの誕生日を記念するクリスマスは来る。今年は、クリスマス礼拝に出席したことが原因で死ぬ人が少なからず出る年となるだろう。それでも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」に基づいてクリスマス礼拝を守るのが正しいと考える人はいるし、積極的に人を集める牧師もいるだろう。自分に与えられた仕事と責任は何かという問いに向かい合って自分で判断するしか無い。

復活の信仰は救いだ。最終的には全ての人が救われるのだろう。

画像はEntreprenörskyrkanという廃教会を居抜きで使ったストックホルムのコワーキングスペース。2014年12月に訪問したが、今はガムラスタンに引っ越している。廃教会にはかつては信徒が集って礼拝が持たれていた時期があったはずだ。なぜ、その会堂は使われなくなったのか、人がいなくなったのかには様々な理由があるだろう。廃教会を見ると、この世に永遠に続くものなど無いと考えさせられる。