新生活14週目 - 「神殿で献げられる」

福音のヒントでは聖家族 という題がついている。プロテスタント教会に通っていたせいか、単に不勉強なだけか「聖家族」という表現には馴染みがない。「伝統的にイエス、マリア、ヨセフの家族は「聖家族」と呼ばれ、わたしたちの家庭の模範とされてきましたが、教会の暦の中では、降誕祭の余韻として、イエスの幼・少年時代の出来事を味わう日になっているのです」という文を読んでも、今は「へえ、そうなんだ」という感想しかない。

私にはマリア信仰はない。さぞかし大変な思いをした女性だろうとは思う。ヨセフも苦労しただろう。身に覚えのない長男をどう見ていたのだろうかと想像しようとしても正直像は結ばない。ユダヤ教の世界の風習にしたがって割礼を受ける頃の話なのだが、私には今ひとつピンとこない箇所である。次の週はもう「公現日」あるいは「公現祭」を迎え、教会暦では単なる人間だった時期は年に1週間だけ記憶されている。

あらためて四福音書対観表を見ると、マルコによる福音書には生誕時の記述はないし、イエスのヨハネによる洗礼以前の記事があるのはマタイとルカだけで誕生記事以外は並行記事が存在しない。ルカによる福音書は冒頭に

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

と書かれているように、一種の調査報告書と見える。wikipediaにあるように学のある人物がまとめているようなので、平行記事が存在しなかったとしても何らかの根拠があって書かれたものと考えても良いとは思う。

ここで本日の箇所を福音のヒントのページから引用させていただく。

福音朗読 ルカ2・22-40

 22モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
  この僕を安らかに去らせてくださいます。
 30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 31これは万民のために整えてくださった救いで、
 32異邦人を照らす啓示の光、
  あなたの民イスラエルの誉れです。」
 33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
 39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

福音のヒント(2)で「とにかく、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということが何度も繰り返され、強調されています」とあるように、福音書記者はヨセフとマリアはきちんとしていたということを記したかったと読める。宣教活動を始めた後のイエスは衆人の目にさらされていたから、良い話も悪い話もかなりの情報を収集することができただろうが、生誕時は50年も前のことで記事に出てくる老人たちは既に他界しているだろうし、それを目撃していた人がいたとしても情報収集時には若くても70歳代で事実の検証は困難だろう。ただ、何らかの伝承があったから福音書に掲載されていると考えるのが適当だと思う。

父ヨセフは伝承では30年頃に他界しているようで、福音書に記載がないことから想像すれば、イエスが磔になった時には既にこの世にはいなかった可能性が高いと思う。あるいは、不仲だったのかも知れない。処女懐胎を認めると、義父となり血の繋がりはなかったことになる。父子の関係は単純なものではなかっただろうし、夫婦の関係も単純ではありえないだろう。それよりは、普通の夫婦だったと考えた方が解釈としてはしっくり来る。夢のない話ではあるが、私はマルコによる福音書の書き出しの受洗時に「天が裂けて”霊”が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった」で事態が一変したと考える方が今の私にはしっくり来る。

血筋の呪縛からはなかなか自由になれないので、イエスに注目が集まれば、その親はどういう人だっただろうか、その幼少期はどうだったのだろうかと考える人はいくらでもいるだろう。しかし、イエスの教えは救いと血筋は無関係としているように読める。私が、どうもカトリックに違和感を感じるのは、マリア崇拝の影響が大きい。

今日は「教会の暦の中では、降誕祭の余韻として、イエスの幼・少年時代の出来事を味わう日になってい」て、一休みというところなのだろうか。

第一朗読と第二朗読はアブラハムとイサクの記事が取り上げられている。

第二朗読 ヘブライ11・8、11-12、17-19

 8〔皆さん、〕信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。11信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。12それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
 17信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。18この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 19アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

私には子供がいないので自分のこととして独り子を犠牲に捧げる父の気持ちを想像することはできないが、旧約聖書の時代も血筋に相当な重きがおかれていたことを想像させる記事である。福音朗読とは光の当て方が違うが、家族を再考させる記事となっている。ヘブライ人への手紙のwikipediaの記述を見ると「著者はモーセの律法の、従来考えられていた意味をとらえなおし、そこに新しい意味を与えようとしている」とある。「信仰によって、」という言葉が繰り返されているが、「常識の呪縛を越えて、」と置き換えても違和感はない。そして「常識の呪縛を越えて、」信仰に基づく行動をとった時に、それは報われると説く。危ない匂いがするが信仰とはそういうものなのだろうと思う。

今日は、波乱の年2020年の最後の日曜日。アドベントから始まる教会暦としては最初の月の終わりで、来週から公生涯をなぞり始める。先週はクリスマス礼拝に参加できて良かったが、砧教会を出て3ヶ月以上が経過した。次の区切りはイースターだ。しばらくは「福音のヒント」の助けを借りながら、歩みを続けたいと思う。仮に100歳まで生きたとしても後40回しか教会暦を過ごすことはできない。若い時は、先はいくらでもあると思っていたが人生は短い。ごまかしに生きることなく、誠実に一歩、一歩歩みを進めていきたい。振り返れば先週のオンライン礼拝には福音のヒントにある「イエスに出会う喜び」をかすかに感じることができたように思う。教会=牧師でも教会=役員会でもない。牧師、役員会からの絶縁状を受け取ってしまったが、その程度で枝が簡単に切れるわけではないのだろう。もちろん、物理的などこかの教会にこだわる理由は、ほかに優先すべき理由があれば意味を持たないが、そうそう簡単にこの世の縁も切れないのである。排除のメッセージを送ってしまった金井氏および役員諸氏の上に主のみ守りがあることを心より祈る。