内田樹が「自由学園創立100周年に寄せて」というブログを書いている

内田樹の「自由学園創立100周年に寄せて」というブログを読んだ

自由学園を卒業して38年が経過した。同級生とは先々週Zoom飲み会をやったばかりだ。私の最終学歴は理科大という事になっているし、理科大卒として新卒入社して29年サラリーマン生活を送ったが、自分が卒業した学校はどこかと問えば、直ちに自由学園であると答える。美しい庭と建築物、不自由な生活が記憶に残っている。

一つ信じていたのは、教師の誠実さだ。生徒を育てることに真剣だと感じていた。

内田樹が書いている「それと同じ『よきもの』を実現するためには今ここにおいては何をすればいいのかを考えること」は「あなた方が入学したのは自由学園をよくするためです。先生はただ一人、イエス・キリストです」というメッセージの別バージョンにあたると思う。

自分が入学してから卒業するまでに、あるいは現時点に至るまで、自分が自由学園をよくするために貢献できたかと問えば、結果は残せていないと答えるしか無いだろう。一方で、自由学園は私を成長させてくれたかを考えると、明らかに貢献してくれたと思う。

「それ自身一つの社会として生き成長しそうして働きかけつつある学校」はかなり難しいビジョンで、経済的持続性を備えていなければいけないことになる。今の時代だと利益を産む知財を蓄積しないといけないのではないかと思う。

内田樹の最後のメッセージ「そういうかたちで繰り返し『伝統を再び活性化する』こと、ときどき消えかけてしまう灯に新しい息を吹き込むことが自由学園のような長い伝統を持つ教育機関に学ぶみなさんの義務でありまた権利でもあります」は重い。「学ぶみなさん」は「関わるみなさん」と読み替えて受け取った。

今の私に影響を与えた組織を3つ選ぶとすると、上から砧教会、自由学園、シーエーシーだ。それぞれに思いを寄せるときに自分の未熟さを思い知らされる。それぞれの繁栄を願う。今は、絶縁状をつきつけられてしまっているが、砧教会がなければ恐らく自由学園に入ることもなかっただろうし、多分、全く異なる人生を歩んでいて、シーエーシーに入ることもなかっただろうと思う。シーエーシーで一定の成果を残せたのは、自由学園の教育の賜物だと思っている。自分で考える訓練の機会が豊富に与えられた。シーエーシーに入社した時も、決め手は「独立系」の精神が本物だと思ったからで、自由への道との親和性を感じたのだ。上手に生きていくには社会性は不可欠だが、自由を目指せば孤立も覚悟しないといけない。壁を超えるためには実績を示していくしか無い。シーエーシーで役員になった頃、すごく良いと思っていたのは「人が育って一人前になる会社」という当時の新社長メッセージだ。「それ自身一つの社会として生き成長しそうして働きかけつつある学校」とちょっと近い。砧教会では、親の世代の信徒が繰り返し「真実一路」を原点においていた。正直に行って子供の私はその意味するところを理解していなかったが、小学生からずっと関わっている内に自分の中の価値観に大きな影響を与えてきた。残念ながら私には現在の砧教会は老いてその原点を失ってしまっているように見えている。牧師が独裁者の罠に堕ち役員会が事実に向き合うことを放棄してしまっているように見えている。もちろん、私の勘違いである可能性は高い。本当のところは時が証明していくのだろう。

内田樹が書いている「それと同じ『よきもの』を実現するためには今ここにおいては何をすればいいのかを考えること」を一個人として自分に問い直さねばならないと思った。自分にできることは限られている。可能であれば、砧教会にも、自由学園にも、シーエーシーにも恩返しをしたい。

※画像は、自由学園のホームページからキャンパスマップを引用させていただいたもの