新生活15週目 - 「占星術の学者たちが訪れる」(公現祭)

hagi に投稿

公現節は、金井牧師が砧教会で話す前には意識したことはなかった。今回あらためてググってみると「公現祭」としてwikipediaに掲載されている。「元は東方教会の祭りであり、主の洗礼を記念するものであった」はすごくしっくりくる。

とはいえ、カソリックでは「占星術の学者たちが訪れる」というマタイによる福音書にだけ出てくる箇所を毎年学ぶらしい。教会学校の頃から繰り返し降誕劇を見たり演じたりしてきたため『「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」』のイメージが記憶に定着してるが、福音のヒント(1)にある通り「3人という数は聖書には書かれていません」だ。

まずは、聖書の箇所を引用させていただく。

福音朗読 マタイ2・1-12

 1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 6『ユダの地、ベツレヘムよ、
  お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

マタイによる福音書では、この箇所の後に「エジプトに避難する」、「ヘロデ、子供を皆殺しにする」、「エジプトから帰国する」と記事が続いている。そして、ヨハネの活動からイエスの洗礼につながる。3章でやっとマルコによる福音書の先頭に追いつく。

あらためて、マタイ伝のこのあたりの記載を見ていると、どうも怪しい感じがする。ナザレはエルサレムから直線距離で100kmほと北方にあり、ナザレのイエスと呼ばれているように彼の生活拠点はエルサレムから遠い場所にあったのだと思う。ベツレヘムで生まれたかどうかは私から見るとどうでも良いことだが、この記事を読んでいるとイエスの正当性を強化するために記録されている匂いが強い。並行記事がないことからも怪しいのだが、クリスマスには繰り返し読まれ、神話のように定着しているように思う。

「何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のもの」は、福音のヒント(5)で書かれているとおりだと思う。イエスの教え、福音そのものには形がないが、人間イエスには形があり生まれ、生涯、死がある。その形あるものへの執着が人々を物語に誘っているのではないかと思う。

「ヘロデ王は不安を抱いた」という記述は王あるいは支配者層に共通する感情だと思う。権力者であっても無敵ではない。本物の登場は力を行使する者にとっては常に脅威となる。この物語の事実があったかどうかはともかく、学者は真実を追求する者の象徴とも取れる。マタイ伝のコンテキストで考えると、学者がヘロデ王に真実を告げなければ子供を皆殺しにすることもなかったことになり、真実を告げれば悲惨もついてくることがあると書かれているようにも読める。そして、権力、権力者は永続しない。すべての人は、一定の力を持ちそれを行使しているし、同時に学者のように真理を追求する要素ももっている。自分を都合よく、どちらかに分類してその視点から見て判断してしまうが、実際にはあちら側もこちら側もつながっている。愛がなければ行為全てに意味がないというのが福音なのだろう。

とても調べきれるものではないので、聖書学者がマタイ伝2章をどう分析しているのか知りたいと思った。