今週の箇所は「四旬節第1主日 (2021/2/21 マルコ1章12-15節)」。プロテスタント教会では一般的には受難節と呼ぶと思う。長年教会に通っていると、毎年毎年繰り返しやってくるイースターに向けた準備の時期で特に意識することはないが、今年は母教会では、心静かに礼拝を守ることが困難になって、福音のヒントで学んでいるから新鮮である。そういえば、ニューヨークに住んでいた時に彼の地の教会でイースター前の習慣に触れた時にも驚いたことがあった。Wikipediaの四旬節を読むと、「四旬節は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭の46日前(四旬とは40日のことであるが、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のこと」とある。これまた意識してはいなかったが、今年は今週の2月17日が灰の水曜日だった。Wikipediaの灰の水曜日によれば、起源ははっきりとしないものの「元々、教会から離れた人が戻る際の反省に灰を使っていたことはあり、これが4世紀にはレントと結びつけられていた」とある。私は今「教会から離れた人(牧師と教会執行部からネグレクトされている人)」だから、ちょっと感傷的に受け取った。ニューヨークでは、灰の水曜日に教会から出てくる人を見た覚えはあるが、なんとなく儀式的で呪術的なイメージがあって近づきたくない気持ちになったものだった。
受難節の初めというと私がイメージするのはエルサレム入りである。マルコによる福音書だと11章からの箇所だ。しかし、今日の箇所は洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたあとの「誘惑を受ける」と「ガリラヤで伝道を始める」と見出しがついているところだ。なるほど、公生涯の前の段階から四旬節を読むのかと感じたのであった。
マルコ1・12-15
誘惑を受ける
12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ガリラヤで伝道を始める
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 と言われた。
マルコによる福音書の荒野の誘惑と言われる箇所はたった2節と短い。並行箇所のマタイ4章、ルカ4章は長く、サタンの誘惑の具体的な内容が書かれている。福音のヒントでも荒野についてはA年を参照せよとあるので、四旬節第1主日 (2020/3/1 マタイ4章1-11節)を読んでみた。荒野と40という数字で想起されるのは出エジプト(エクソダス)だと書いてある。そうなのか、出エジプトは荒れ野の旅だったのかと思い、Google mapでカイロからエルサレムの経路を検索してみた。衛星写真モードで見ると確かに不毛の地に見える。実際の詳細な経路はわからないが、今の徒歩中心経路で727kmで徒歩148時間と出る。東京から尾道が750kmなので、遠いといっても知れている。しかし、経路途中の写真をブラウズすると岩砂漠のような景色で、舐めてかかると恐らく簡単に死にそうな場所が多いように見える。死海そばの荒野も岩砂漠のようだが、出エジプトと比較すれば超ミニサイズの荒野の旅と言えるだろう。やはり機会があればこの目で見たい。
同じく昨年の福音のヒントの記事を読むと、荒野の誘惑は物欲、保身、権力欲といった解説がついている。わかりやすいが、逆にマルコ伝ではなぜ2節しか記述がないのかと考えると不思議に思う。マルコ伝以降の編集加筆だった可能性も否定できない。今週の福音のヒント(1)では「洗礼のとき以来、一貫してイエスの行動を導くのは神の霊なのです」と書いてある。この記述にはかなり納得感がある。自分がなすべきと思うことは、時に自分の意思に関係なく降ってくる。降ってくるとしか思えない経験がある。よくわからないが、突き動かされるのである。霊に引きずり回されて荒野で過ごし、困難の中で使命を確信していくのは見方によっては珍しいことではない。ただ、普通と違うのは、イエスが自分を見失わなかったように見えることだ。
今日の箇所を読み直すと「時は満ち、」という言葉が気になった。改めて検索してみると、この「時」はギリシャ語のカイロスというという単語が使われているらしい。クロノス(時刻あるいは量的事象)とカイロス(時間あるいは質的事象)の違いにこだわりを持たれていた先達のことを思い出した。2つの言葉の意味を厳密に扱うことはできないが、この「時」は2000年前の計測可能な時点を示すのではなく、2000年前にイエスに訪れた心的な変化を表す質的な転換点を示すのだろう。逆に言えば、その時は2000年前のこの時点で起きたことではなくその人に福音が届いた瞬間に時は満ちると考えるのが良いだろう。だから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は常に現在形で良い。今生きている人のこの瞬間に時は満ちているのである。「福音に接することが神の国が近づいたという事象であり、その時が満ちたのだから信じなさい」というクロノスに独立したいつでも機能するメッセージと感じられる。クロノス的にはまず人間イエスに福音が降った。日本語だと悟りとでもいえばよいのだろう。イエスを通してこのメッセージは広がっていった。死後もイエスを通してメッセージはパウロに降った。事象としては、神の霊の業と呼んでよいだろう。神とは何かが改めて問われることになる。理屈として問えば、三位一体に至るだろうが、それを解明できたとしても、その理論だけでは人を救うことはできない。生きて働き続けているメッセージにどう応えていくかが常に問われ続ける。迷いが生じれば幸せになれないし、迷いがない状態は狂気に等しい。「時は満ち、」の判断を誤ると社会から抹殺される。しかし、人間社会の基準で判断を誤り磔にされたイエスは社会的には2000年を経ても生き続けていている。何を聴くか、どう聴くか、いつ聴くか、と常に自省するしかないのだろう。
福音のヒント(5)には、「活動開始の箇所が読まれるのは「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉のため」とある。この言葉は謙虚に受け止めたい。「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は難しい。少なくとも不義と戦えばそれで良いということは意味しない。敵がどれだけ邪悪に見えても、愛で応えるのがその道だろう。今年は、受難節を意識して過ごしてみようと思う。
※画像は、wikimedia「File:EgyptIsraelBorderEilat.JPG」から引用したもの(パブリックドメイン)