新生活25週目 - 「イエスとニコデモ(後半)」

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 今週の箇所は「四旬節第4主日 (2021/3/14 ヨハネ3章14-21節)  」。福音のヒントによると、「四旬節・復活節の根本的なテーマはイエスの死と復活にあずかることです」とある。ふと「あずかる」とは何かが気になって、Googleで検索してみた。「あずかる キリスト教」で引くと最初に出てきたのは、『聖餐式の意味(2019年2月10日)』だった。記事では、「「あずかる」という言葉は、教会に新しく来た方にとってはわかりにくい言葉かもしれません」と書かれている。今まで、受動的に聞いてきたので、深く考えたことはなかったが、引用記事は新鮮だった。

今日の聖句はイエスとニコデモという見出しがついている部分の後半だが、その部分の最初ヨハネによる福音書3章1節から引用する。

1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と書かれているこの箇所には共観福音書に並行記事はない。この記事でニコデモは誠実で正直な感じがする。私自身は「新たに生まれた」と思った瞬間は受洗前をだけではなく複数あった。しかし、いわゆる悟りを開いたと思ったのは幻想であったことは時間が経てばわかる。そうそう人生は甘くない。

精霊のヒント(2)で14節の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」にふれて民数記21章を引用している。民数記の記事はわかりにくいがシナイ半島の岩砂漠地帯には、サハラツノクサリヘビが生息しているようで、出エジプトの時期に被害にあった人もいるのだろうと思う。モーセの青銅の蛇を描いた絵画を見るとイメージが湧く。蛇と同じように「人の子も上げられねばならない」とあると、十字架を想像させるものがある(画像はWikimediaから引用)。

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(毒蛇同様)「十字架もまた、のろいと死のシンボルでしたが、キリスト者にとっては救いといのちのシンボルになった」という対比は興味深い。言葉だけでは、なかなかピンとこないが、映像になるとなるほどと感じる。

民数記の「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」は現代だと非科学的に見えるが、もし解毒剤が開発されていなかったなら、気持ちの持ち方で被害が軽減される効果はあっただろう。神の国とか天国とか救いは、自分で制御できることではない。しかし、自分の行動は変えられるから、それを助けてくれるシンボルには効果があると思う。少なくとも、私にとっては、イエス・キリストという存在が自分の行動に影響を与えている。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」は、現代的に言えば、継続的に真実を追求し続けるプロセスに生きよ、ということだろう。追求し続けたはてに復活のイエスがいるのだと思う。自分に見える真実が多数派と異なる時には困難が待ち受けるが、誰であれ一度見えてしまったらそれは試練として受け入れるしか無い。恐らく、それは恵みである。もちろん、単なる勘違いの可能性もある。

まもなく、砧教会が会堂閉鎖を総会決議した日から、1年が経過しようとしている。昨年の予算総会の議事録には以下のようにある。

萩原高行よりCOVID-19のエピデミック時は教会を閉鎖すべきという意見が出て、基準として出席者から感染者が出た場合または東京都の前週(土曜から金曜)の陽性数が100を超えた場合を閉鎖条件とすることとした。再開の基準は閉鎖後3週間以上が経過して、東京都の前々週、前週の陽性数が100を割った場合とする。
カソリックは学校閉鎖とともに教会を閉鎖したという参考情報が佐分利より提供された。
都の数字は過小との疑義があるとの意見があり自由意志で参加するのが望ましいという意見もあった。
賛美歌の曲数を減らしたり、会話を抑制したりしてはどうかという意見もあった。
決を採り、賛成多数で動議を承認した。あわせて放送の受信方法を案内することとした。
賛美歌は声を出さない方が良いという意見も、オルガンだけでは無理があるという意見も出た。委細は金井牧師に一任することとした。

「賛美歌は声を出さない方が良いという意見も、オルガンだけでは無理があるという意見も出た」というのは、当時はまさかすぐに会堂閉鎖の時期が来るとは思っていなかったから会堂礼拝を継続していても次週以降のやり方を注意しなければいけないという話だったのである。その委細を牧師一任にしたのだが、彼は議決全体が牧師一任されたものと強弁し続けている。6月7日の不法な会堂再開強行事件を経て、不法な書面総会によって、この議決は正式に役員会一任に改悪され葬り去られた。どう考えてもおかしいだろうという私の声は黙殺され続けている。恐らく、これから1年後もCOVID-19が収束し犠牲者がゼロになる日は来ていないだろう。私は、事実をごまかす闇の側ではなく、光の側にいたい。明けない夜はないと信じている。正気が取り戻される日を願ってやまない。

※画像はWikimediaから引用したもの