今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「受難の主日 (2021/3/28 マルコ15章1-39節)」。この箇所の前は、逮捕のシーンやペテロの否認の記事がある。マタイによる福音書以外の福音書ではユダの自殺の記事はない。福音のヒントの「教会暦と聖書の流れ」には『(カトリック)教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、イエスの「受難・死から復活のいのちへ」という「過越(パスカ)」を記念します。』とある。私が「聖なる過越の三日間」の習慣を知ったのはニューヨークの教会だった。イースターはクリスマスより理解が難しいし、イエスの死の過程に向き合うのは誕生を祝うことと比べれば明らかに苦しいものだ。つい逃げてしまうが、ここから逃げてしまうと何もかにもがキレイごとになってしまう。
このあたりの聖書を読む時は、イエスの側(信者の側)に立って読んでしまうが、現実には私はその他大勢である。特別な存在ではなく、その時代に生きていたら流れに乗ってイエスを十字架につけよと叫んだ群衆の一人だった可能性が極めて高いと考えないわけにはいかない。自分が十字架に磔にした側にいるという自覚をもって読み、自分の歩むべきを道を探さないといけないのだと思っている。教会暦は、そのきっかけを提供するという意味で価値があると思う。福音のヒントでは「長い形としてマルコ14章1節~15章47節を読むこともできます」とある。14章は、イエスを殺す計略という見出しのついた箇所から始まり、ペトロ、イエスを知らないと言うという見出しのついた箇所で終わる。15章の最後の部分には墓に葬られるという見出しがついている。
15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
福音のヒントの(1)の「イエスは最終的にローマ帝国に対する反逆者=政治犯として十字架刑に処せられました」というのは示唆に富む。不敬罪に近い。権威に盾突き、秩序を乱すものを処刑するというのは今も変わらずに行われている。独裁国家だけでなく、教会でさえ異論を封じコミュニティとしてその存在を抹殺するようなことは起きる。人の心を一色に染めるような思いが、イエスを殺したと言っても良い。群衆は愚かに見え、自分は違うと思いがちだが、ほとんど100%の一人の人は善人だ。自分がおかしなことをしているという自覚はなかっただろうと思う。(2)の「イエスのそれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったと考えたほうがよいでしょう」は(1)と同系統のメッセージと読める。
教会暦を尊重することにも意味があると思う。「人を裁いてはいけない」という教えを守るのは難しい。
※画像は、ユダが死んだとされるアケルダマの修道院でWikimediaから引用させていただいたもの