今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第16主日 (2021/7/18 マルコ6章30-34節)」。
福音のヒントの冒頭部に(前週の箇所に)「続く14-29節には、弟子たちがイエスとともにいなかった時間を埋めるかのように、洗礼者ヨハネの殉教の物語が伝えられています。」と書かれている。14節は以下のとおり。
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。
人々は言っていた。「 洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、 奇跡を行う力が彼に働いている。」
その後に、どういう経緯で洗礼者ヨハネが死んだのか書かれている。彼は王の行為が違法であることを指摘して投獄された。そして違法行為を糾弾されることを嫌った当事者の意向を汲んで王が洗礼者ヨハネを殺させたと書いてある。14-29節が史実に基づくものだとすると、この段階でイエスの評判は王室まで届いていたことになる。Wikipediaの記述を見ると、ヨハネの没年は36年頃、イエスの没年は30年と推定されているので、時系列があわない。ヘロデ王=ヘロデ・アンティパスは磔刑前のイエスと会っているとされているが、その時点ではまだヨハネは生きていたことになる。
能動的に聖書を読もうとすると、何か変だと思わせる部分は無数にある。本当は何があったのだろうか?
ここで、本日の福音朗読を引用させていただく。
福音朗読 マルコ6・30-34
30〔そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
私はヒツジのこともよく知らないが、ヒツジはバカではないらしい。wikipediaには「先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)」と書かれている。また「危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである」や「ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥る」とある。ヒツジの生態を知っている人からすると、「飼い主のいない羊のような有様」は、わけも分からずに群れてイエスを見ようとする行動に移した人にぞろぞろとついていっている状態ということを意味したのだろうか。
イエスは、繰り返し自分で考えろと説いていたので、ただ群れているような状態は好ましく考えてはいなかっただろう。
前後するが、本日の箇所は2人組での伝道旅行からの帰還のシーンだ。もし一斉に帰ってきて再会したとすると、かなり計画的に定められた期間で何らかの網羅性のあるものだった可能性がある。やりきった高揚感もあっただろうし、疲労もあっただろう。当然、休養は必要だったはずだ。
この伝道旅行は成功だったのだろうか?あるいはイエスは成功だったと考えただろうか。
イエスという存在が広く知られることになった、その教えが聞かれたという意味では成功だろう。一方で、ぞろぞろとついてくるような結果は失敗と言えるのではないかと思う。その人が生きる場所で、新しい教えに基づいて行動し、自立的に社会を変化させていく未来がより望ましいのではないだろうか。
福音のヒント(1)で「わたしたちも「使徒」だと言えるのです」とある。とても示唆に富むと思う。
伝道旅行中はイエスはそこにはいない。遣わされたものは自力で使命を果たさなければいけない。そして、その仕事は伝えることであって自分を売り込むことではない。だから使徒は伝えた相手がついてきてしまうようでは本当の使命を果たしたことにはならないと思う。
今自分がいる、あるいはいたいと思っている群れがどっちを向いているかは現実的には死活的に重要な問題なのだが、群れについていけば良いということにならない。「わたしたちも「使徒」だと言えるのです」という考え方を否定しないが、個人的には最近「わたしたち」という言葉に猛烈に違和感があるのだ。大勢の群衆もひとりひとりは同じ人間であり、同時に一人として同じ人間はいない。群れが大きいことに安心してはいけない。
※画像はWikimedia(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rumunia_5806.jpg)から引用したもの