アフガニスタンの平和を祈る

カブールの陥落のニュースを見て、高遠菜穂子さんという名前を思い起こした。

彼女はイラク日本人人質事件で注目された方で、アフガニスタンにいっていたわけではないが、なぜか私の中ではアフガニスタンと結びついたのだ。改めて検索してみたら、2008年8月のインタビュー記事で彼女がアフガニスタン行を考えていたことが書かれていた。この記事はものすごくインパクトがあってインタビューアーが憲法9条に焦点をあてているのでそこの部分が強調されているところはあるが、ああ、こういう人が本当にいるのだという驚きを感じさせるものだ。結構長いけれど、ぜひ一読をお薦めしたい。一読でなく数回読み直す価値があると思う。

イラク日本人人質事件は2004年の話で、自己責任論が話題になった。高遠菜穂子さんと共に人質となった郡山総一郎さんは「なぜ自分がイラクに行き、なぜ誘拐されたかを考えた人がどれほどいたのか。国の言う自己責任は責任転嫁でしかない」と発言して糾弾されている一方で、米パウエル国務長官は「イラクに行った自衛隊や民間人がリスクを引き受けたことについては、日本の人々は誇るべきだと私は考える」と発言したとされている。

改めてインタビュー記事を読んで自己責任論を考えると高遠菜穂子さんのような活動の自由を認められるか否かは国家の人権に関する評価指標の1つとなると思う。本人はもちろん自分に事件に巻き込まれるようなリスクを犯している自覚があるが、自分ではどうにもならないような状態になった時に国家がそれにどう対応するかは全く別の問題として考えないといけないと思う。私は高遠菜穂子さんがとったリスクが小さいとは思わないがそのリスクを取る自由があって良いと思う。また、インタビューにあるような活動を行っている同朋が危機に直面した時に切って捨てるような政府は支持できない。

脱線したが、その高遠菜穂子さんが昨年12月に『イラクでの17年でわかった「ほぼ無理」なこと。』という記事を書いている。2004年の事件からでももう17年経過しているが彼女は今でも活動を続けていた。そして、記事に『「武力はいかん、対話で解決を」というのが いかに「ほぼ無理」であるかがわかり、私たち人類は対話をする準備さえ整っていないことを痛感しました。』と書かれているのが重い。誰かが家族を傷つければ怒りはその人に向かうが、大勢が傷つくと傷つけた人たちを括って敵とみなすようになる。括らないで一人を見れば、ほぼ100%普通の人間で、病的な人ではない。しかし、括ってしまうとお互いに人間扱いできなくなってしまうのである。これは自己責任論に通じるもので、自己責任を求める人にとっては対象は同じ人間に見えていないのだ。同朋ではなく迷惑でいなくなっても構わない、あるいはいなくなってもらいたいと考えてしまう。大半は無自覚だと思うが、病んでいると考えるべきだろう。多数派だと、自分が病んでいることにも気がつくのが難しい。

私がコメントするのは浅すぎるのは承知で言えば、高遠菜穂子さんの絶望感は、自分も相手も同じ人間であるという当たり前の事実に立ち戻ることの難しさを示しているのだと思う。素手を含め武力を持っているままだと、相手が自分のことを同じ人間と思っていなければいつ傷つけられるかわからないから身構えていなければならない。集団であれば排除が近道となる。9条問題と通底するが、恐らく武装解除の貫徹が大前提ではないだろうか。

今一度「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永遠にこれを放棄する。」の理念を堅持しつつ持続性を保ち、世界平和の実現にどう貢献できるのか考え直す必要があると思う。アフガニスタン出身の知人のことを思う時はもちろん、インドやネパールに訪れたときのこと、ヨルダン出身の知人を思ったりすると、地続き感がある。私には、高遠さんのような勇気や同じような情熱はないけれど、世界中のどこにいっても怖くないような未来を願っていて、私ができること、やりたいと思うことで貢献できる道を探りたい。動けば、口を開けば、リスクは増える。しかし、リスクを取る人がいなければ未来が拓けることはない。

上には上が限りなくあるけれど、いろいろなところでいろいろなことを見た経験から、より平和になる道を探す助けになるような情報発信をしようと思っている。