新生活48週目 - 「永遠の命の言葉」

hagi に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第21主日 (2021/8/22 ヨハネ6章60-69節)」。先週はマリアの話だったので先々週の続きとなる。52節から59説が飛んでいるので、参照しておく。

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

ここも並行箇所のない場所で、かなり混乱させる記事である。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」という記述は衝撃的で、想像すると気持ちが悪くなる。

続きて今日の福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ6・60-69

 60〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

60節は『弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」』に手が加えられた形だが、至極真っ当な反応に感じられる。当然66節にあるように『弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。』も自然な帰結に感じられる。ヨハネ伝では、他の福音書全てに出てくる最後の晩餐の記載がないので、そこに関連付けるのが適切なのだろう。考えにくいが一つの可能性として、ヨハネ伝の記述のほうが事実で、それが強烈すぎるから他の福音書ではパンとワインになぞらえたと考えることもできる。ヨハネ伝ではこのあとエルサレムに向かうシーンにつながっていくので、ここでふるいにかけて同行者を厳選したという解釈もあるかも知れない。

イエス自身は逮捕される前に覚悟はしていただろうから、フォロアーをそのままにしておくと武力衝突に至ることも考慮していたと思う。マルコ伝では14章47節に「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。」とある。もし、大人数が共にあったら恐らく暴動が起きただろう。意識的にフォロアーをちらした(解散させた)と考える考え方もあると思う。ちなみに、47節の弟子は誰だったのだろうか。仲間内では、相当衝撃的な事件として扱われたはずだ。英雄的に見る人もいたかも知れないし、思慮に欠けると批判する人もいたかも知れない。彼のその後の人生に大きな影響を与える大事件だっただろう。もちろん、12弟子の心にも残っただろう。いずれにしても、12弟子も散った。

福音のヒント(1)ではヨハネ伝の成立の背景について触れていて「イエスを信じないユダヤ人たちとの論争の中で、イエスの言葉を思い起こし、拡大していったと考えたらよいのではないでしょうか」と書かれている。「紀元80年にユダヤ教のラビたちは、キリスト信者をユダヤ教の会堂から追放するという決定を下しました」という背景から、ハードにどちらにつくかという踏み絵が必要になったから表現が過激化したのだという読み方ととれる。キリスト教はユダヤ教の教義の再解釈を行って宗教活動としての正常化を目指したものだと思われるので、正統派であるユダヤ教のラビたちが異端として追放を決断するまではやがてイエスを信じる者たちがユダヤ教の主流を占めることになるだろうと考えていただろう。

改めてこの箇所とヨハネ伝の位置づけを考えると新しい宗教として教団を立ち上げる過程でまとめられた書物であることが感じられる。カトリックはその上で成立しているわけだし、現在のプロテスタントももとを辿ればカトリックの分派だから、その影響を強く受けているのだと思う。

この箇所を見ると12人(11人)の側近だけを残した、あるいは残ったように書かれており、教団が信徒に対して、お前たちはその行動にならえるかと問うているようにも解釈できる。この箇所のペテロの返答の記述には考えさせられる。『シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」』とあるが、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と「あなたこそ神の聖者である」は改めて読み直すと難しい。

「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」はあなたは神のメッセージを伝えていますと表明していて、「あなたこそ神の聖者である」はあなたは神に選ばれし者ですという表明だろう。どちらもイエスが預言者であるという表明と読むのが適切だろう。この時点では神そのものではない。

ヨハネ伝では、復活後にペテロに「わたしの羊の世話をしなさい」と言ったと書かれている。それが教会の起源である。この時点ではイエスは既に預言者ではない。そして、ユダヤ教の指導者ではなく、ペテロに「わたしの羊の世話をしなさい」と命じたことで、新たな人間界の頂点が定義されたことになり、組織の正当化が確立されたことになる。ペテロに命が下ったのでそれにつらなる正統な系譜に権威が宿ることになる。

ちなみに、マタイ伝では、「あなたがたは行って、すべての民をわたしのでしにしなさい」とあって、ペテロを頂点とする構造を示唆してはいない。

私には、今日の箇所の解釈をするのは難しすぎる。現時点では、原始キリスト教団が自己正当化のために捏造したのではないかと感じられている。いつか、その真の意味が理解できる日が来るのかも知れないが、今はどうにもわからない。

福音のヒント(4)の『「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」は、すべては神の計画の中にあり、人間的に見て不条理なことや理解に苦しむことも実は神の大きな救いの計画の中にあり、人間が拒否しても裏切っても神の救いの計画は確実に実現に向かっているという信頼を表す言葉なのです(一部組み直した表現)』に強く共感する。「神の救いの計画は確実に実現に向かっているという信頼」は私の内で失われていない。今直面している問題の解決に、どれだけの時間がかかるのか、生きている間にことが動くかどうかもわからないが、必ず進むべき道は示されると信じている。