規模の小さな会社での経験と上場した企業での経験と独立後の経験からDX時代を考える

hagi に投稿

個人も企業も政府もデジタル・トランスフォーメーションの時代(DX)への対応は不可避だ。企業の大小に関わらず影響を受けるし、個人も環境変化に対応しないわけにはいかない。テレワークマネージャー相談事業に関わっているので、どうやったら、DXで公共の福祉が増進できるだろうかとしばしば考えなければいけない機会は少なくない。

私は、企業であろうと政府であろうとDXが進むためにはオープンソースへの適合が不可欠だと思っている。もちろん、個別ニーズに適合するための追加開発または設定作業は不可欠なのだが、組織を越えたベースラインの進歩、進化にはオープンソースのデファクト化がフォーマルな標準化が進むか以外の道はまだ見つかっていないと思う。かつて、ISOのOSIモデルとInternetのRFCモデルの優劣が話題となった時期があった。今振り返ればデファクトスタンダードモデルが圧勝だったわけだが、OSIモデルがだめだったわけではない。進化が起きるプロセスとしてデファクト標準型の方が有利だったと考えるのが良いだろう。Linuxが最大の成功例で、メーンフレーマーは豊富な資金力も優秀な技術者も潤沢だったのにほぼ完敗してマイクロソフトを除けばほぼ消えた。オープンソースアプローチに対抗できるのはサービスプロバイダー化するしか無いというのが現状と見ている。距離をおいて見れば当たり前の流れなのだが、日本に限らないとは言え、残念ながら日本はいまだに自前主義を基本とする製造業モデルを脱することができていないと思う。

小さな会社や遅れて現れたプレーヤーはフリーソフトに頼る。一昔前であれば不正コピーの嵐が吹き荒れたが、オープンソースのフリーソフトが選択できるようになると一気に流れが変わる。Linuxが優れていたと思うのは、コミッターのエコシステムでオープンソースへのコントリビューションが機能するようになった点にあると思う。オープンソースから得られる利益を享受するのは自由だが、自分に都合の良い機能拡張をデファクト化するためにはそのコードをオープンソースとして供出しなければ多くの人に使われることがないので、出していくしか無いからだ。特に重要なのは、他の機能と衝突しないように整合性を持った形でベースラインが上がっていくようなエコシステムが機能している点にある。野良ソフトが敬遠されつつ、複数の進化のパスが許容され、ベースラインのレベルアップとともに再びコア部分が再統合される形になっていれば、安心感は比類ないものとなり、社会共通基盤となる。そういう意味で、LinuxとGitを発明したリーナス・トーバルズ氏は天才的だ。

小さな会社(あるいは小さな国)は、サポートを受けるためにお金を使うことはできないから、できれば無料で使えるものを使わせてもらって、あとは何とか人力で頑張ることになる。大きな会社は、商品に組み込まれるものは品質が問われるので、自前主義に陥りがちだし、外部を使う場合は保証を求めることになる。自前主義はスケーラブルでないし、外部利用でリスクを相手に追わせると軽くコストは数倍に膨れ上がる。結局勝てないが、プロフェッショナルサービスやソフトウェア製品の企業はその不効率が利益の源泉となる。私自身、そういう産業に属していて、そこから給与が得られていたのだが、大局的に見ると非常に不健全だと思う。今後、個人も企業も国もその不健全な状況から脱せなければ衰退していくことになるだろう。

政府がやるべきことは明らかで、まず政府調達を完全にオープンソース化(納品物を利用権開放)すれば良い。行政は本来機能はサービス提供だから、デジタル・ガバメントは全部オープンソースで実現できなければおかしい。問題となるのは隠し事が必要となるケースだろうが、プログラム自身はオープンソースでも問題はなく、どうデータを守れるかが本質となる。管理者であるお上の視点ではなく、サービサーとしての責任を守る視点に変えれば自然と整理できるのだが、従来の権力者による支配の視点でのプロセス設計から転換していくのは容易ではない。逆に言えば、国のエコシステムが変われば、しがらみのない新興企業は圧倒的に有利になるだろう。伝統的な大企業は全体の生産性を低下させる抵抗勢力に堕ちてしまう可能性が高い。

自分の職業人生を振り返ると、時代の変化と会社の相対的な小ささが自己成長の種となったと感じている。

私がバイトながら最初にお世話になった会社は日経就職ガイドを営業・制作していた株式会社ディスコだ。たまたま父が創業社長と知り合いだった経緯からお世話になったということもあって、なまいきざかりの大学生にも関わらず大変よくしていただいたことを思い出す。当時夜学の学生だったこともあって2年間、断続的に勤務させていただいた。私の記憶では、東阪体制で東京オフィスは30人弱のスペースで、営業と制作管理、総務経理からなるチームで全員の名前を憶えていた。四谷から鎌倉橋に移転したばかりの頃で、当時の日経新聞の叩き上げの課長と連携しながらビジネスを伸ばそうとしていたことを思い出す。5時をすぎるとオフィスでアルコールが振る舞われることもあったし、何かの縁で広島の牡蠣が届いたこともあった。業務を中断して美味しい牡蠣を頂戴した(お金をもらって働いている業務時間中にこんなことがあっても良いのかと少し困惑した)。今では小さい企業でも同じようなことは当時ほど簡単ではないかも知れないが、人間関係は小さいチームのほうが濃厚になりやすい。萩原さんという社員がおられたので、私は小萩と呼ばれていた。私は鈍くて当時は感じられなかったが、人間関係が濃厚だったために今思えば熾烈な憎悪もあったと思う。就職ガイドの顧客企業からの原稿受け取りがメインの仕事だったが、締切ぎりぎりで絶対取ってこいという仕事を与えられることもあった。タクシー代を経理の人から渡され、とにかくもらって来いと上司に念を押されて動き、無事回収できて、残額を精算しようとして経理の方に持っていったらびっくりされた記憶もある。学生にとっては時給を大きく超える精算額でも、経理からしたら小口現金の範囲だから当時の常識では、残額は取っておけ位の感覚だったのだろう。申し出に基づいて適正に精算は行われたので、私は結果的にそのお駄賃はもらえなかったが、逆にそれを見ていた営業の方から、「おい小萩飲みに行くぞ」と誘われたように記憶している。お前はバカだが、そのバカさを大事にしろといわれたような気もするが、飲みに行くたびに上手に進められて酔っ払って戻すことが多かったので本当のところはよく憶えていない。

大分脱線したが、小さくて頑張っている企業では、とにかく全員が戦力にならなければ生き残れないので、比較的隠し事が少ないのだ。信用があれば、かなりの部分を見ることができる。当時は、まだPCが実用化できる前だから指導を受けながら学生アルバイトが効率的に動けるようにプロセスの改善で関わらせていただいたことを思い出す。その5年後頃に、当時勤めていた企業でUnixワークステーションを複数台使って発送管理を行うシステムを任せていただいた。当時利用していたオフコンとは全く異なるやり方で事業成長に貢献できたのだが、それは小さな会社でトップの判断で新しいことに挑戦していたからだと思う。時代が変化する時期には挑戦機会が増える。ただし、賞味期限は意外と短い。一つ成功すると、その成功を守らなければいけなくなる。守る側になったビジネスの運営ルールは大企業のそれに近づいていく。同時に、守れなければ利益が積み上げていくことはできない。ちなみに、ディスコ社は素晴らしく成長した。もう私を知る社員はほぼいないけれど、その成長を嬉しく思うし、心から感謝している。

ディスコ社で働かせていただいていた2年間のタイミングで、私は同時にIBMの東京サイエンティフィックセンターでも学生研究員として働かせていただいていた。そちらは東京理科大時代のつながりで全く違う世界での機会を頂戴した。大変ラッキーなことだった。大企業の、しかも研究組織のバイトでほとんどお金をもらって勉強させていただくような立場だったが、当時同じ場所にいたのは東大の宇宙関係の学生だったり早稲田のロボット関係の学生だったりして、本当に学歴戦争の頂点に近い人達だった。次席卒業を恥じるほどのエリートがそこにはいた。ソーラーセイルの話や、三軸ロボット制御の話など、とても同じ大学生とは思えないすごい人達だった。その後、CACのお客様で後に社長になるような超一流企業のエリート社員にもたくさん出会った。著名な大学や大企業には、本当にすごい人がいる。そういう出会いから学ぶことは多い。しかし、私は小さな企業での出会いと大きな企業での出会いに優劣はつけられない。かなり違うものだが、どちらが良いというような代物ではない。

改めて振り返ると、小さな企業ではあまり力がなくても過剰な責任を負わされる可能性が高く、大きな企業では立場を得たければ過剰な責任を自ら取りに行かなければ生き残れない。大企業でも取りに行かない選択肢はあるし、小企業でも自分の能力を発揮できない可能性もある。

DX対応の時代 - 変化に直面している時代には覚悟のある小規模企業の経営者の下で必死に学び、同時にオープンソースコミュニティに参加して学ぶのは結構良い道なのではないかと思っている。いわゆるエリートの人たちもオープンソースコミュニティに参加して、小さくても企業の全ての側面に接している挑戦者と意見交換をすることで新たな地平が見えてくるのではないかと思う。

恐らく、時代はこれから大きく変わる。特に若い方々の挑戦心に期待したい。