ヨハネ伝8章31節に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とイエスが言ったとある。並行箇所はない。
真理とは何を意味するかは解釈が分かれるだろうが、神は人を男と女につくられたという聖書の言葉は現代では事実に反することが明らかになっている。性スペクトラムは連続的なものであることは分かっていて、今は例えば「性同一性障害」と障害という表現が用いられているが、それは確率的に発生する事象であり、男か女でなければ健常者でないという差別意識の産物と言って良い。例えば、Rh-型の人を障碍者とはみなさない。輸血が必要になった時に大変だろうなあと気遣うことはあっても同じ人間の一種の性質として考える人が多数だろう。男とは何か、女とは何かも人によって解釈が違うことも統計的に分析すれば分かってくる。生殖能力がなければ男とは言えない女とは言えないと考える人もいるが、そんな解釈が普遍的に通用するわけではない。
人権を普遍的な価値と考えようというコンセンサスが高まってくると、男も女も単純に分類できない人も同じ人間だという考え方に従う人が増えてくる。ただ、堕胎と人権を組み合わせて考えると、いつから胎児は人権を有するかという問いにつながる。望まない妊娠であっても胎児に人権(生存権)があると考える人がいる。
ファリサイ派を法律絶対主義として否定的に扱われることがあるが、法律は人間が制度化していくものだ。だから、真理または真実、事実の理解が進めば制度を見直せばよいのだ。「神は人を男と女につくられた」が実はそうじゃないということが分かれば、その現実をベースに制度を見直せばよいだけだ。制度は権利の保証の側面をもつので、制度を改正すれば既得権益が損なわれることがある。今の制度が有利に機能していると感じる人は制度改定を望まない。制度設計は本質的には次世代の人に利するものでなければ行き詰まることになる。愛はまず子供の未来に向かうべきものだと思う。
生存権は、経済問題でもあるので、堕胎が許されずにひとり親になった女性と子供が共に生き残れない可能性もある。家制度が婚姻関係に付随する扶養義務を課すことで人権(生存権)が守られたケースは多くあっただろうし、離婚を許さないことで生き残れた人もいるだろう。逆にDVや名誉殺人で失われる命があり、扶養義務は対等性を破壊する。流動性を高められれば対等性は高まるが、安定性は損なわれる。
社会保障制度が充実すれば、流動性が高まっても生存権が脅威にさらされるリスクは下がる。今は、社会保障制度の充実で家制度を弱めていくのが人権尊重の観点から望ましいと考えられる流れになっている。同時に、家制度が弱められていけば、性スペクトラムに起因する問題は軽減される。EUは国民の流動化を促進することで、国家の束縛を軽減した。日本にいると違和感を感じるかも知れないが、江戸時代には国内でも移動の自由は保証されてはいなかったのだ。流動性が上がれば権力者はグリップ(権威)を失う。
「真理はあなたたちを自由にする」は長期的には真理だろう。
環境は変る。男と女しかいないと考えられていた時代は、性スペクトラムの時代に上書きされる。社会福祉の増強を指向していても階層型管理しかできない時代の制度は、一人を扱えるデジタル時代の制度で上書きできる。事実をより正確に把握し、仮説検証を繰り返せば専制と抑圧から人々を自由にすることができるだろう。
イエスの言った「わたしの言葉にとどまるならば」は、私は律法より愛に立てと取る。現実には、全てを救うことはできない。律法もその時点では、生存確率を上げるための規範だったわけで、その上を行けということだろう。ただ、彼は律法は否定していない。どんな境遇にあろうともよりよく生きていける道を探り続けた結果が「わたしの言葉」なのだろうと思う。それは偏り見ること(偏愛)を意味しない。目の前の救える人を救う行為は、突き詰めれば偏愛で公平とは言えない。でもそういう行為がなければ最初の一歩も始まらないから、それはそれで良い。しかし、同時に目の前のことを越えて真理を求めることを弟子たちに求めているのだと思う。
そう考えると、正典はその時点の正典として記録しておいた上で、改訂版を編纂し続けないといけないのだろう。制度、法律がそれだと考えることもできる。その時には、政教分離は不可欠だ。宗教は本質的に差別するので、信仰とは別に信教に関わらず共に生きていける制度を育てていく以外の道は今の私には想像できない。