新生活51週目 - 「ペトロ、信仰を言い表す~イエス、死と復活を予告する」

hagi2021/09/12(日) - 09:25 に投稿
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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第24主日 (2021/9/12 マルコ8章27-35節)」。福音のヒントには『十字架と復活への道を歩む後半(8章31節~16章8節)へのターニングポイントとも言える重要な箇所です。』と書いてある。ここも印象的な場所だ。

福音朗読 マルコ8・27-35

 27〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

新共同訳では、」はこの場所で閉じず、

36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

と続いている。

Wikipediaでメシアを引くとかなり長文の解説が書いてある。英語版だとさらに長い。どちらでもイスラム教でのイエスの位置づけに触れている。「あなたは、メシアです。」は、あなたは王だと表明したのと等しい。ユダヤの系譜は世襲を感じさせるが、ダビデは子供の時に宗教指導者から油が注がれたとされていて前王の子供ではない。つまり、神は任意に人を選んで油を注ぎ王とするという考え方はありだったのだろう。だから、イエスが大工の息子だったとしても、王とされることはありえることだ。サウルからダビデへの政権交代は前王は正規軍を統括していたのに交代が起きたのだから、平和裏に起きた継承とは言えない。イエスが自らが王と認めれば、外面的にはクーデターへの準備に入ったと取ることができる。既存の権力者から見れば反社会的勢力確定と言えるだろう。影響力がない小者ならともかく、民衆の相当な支持が集まっているとなると大きな脅威だ。

この時、イエスはこの先をどう読んでいたのだろうか。この記事を読む限り、イエスはこの時点ですでに、この世の意味ではなく、この世の権力を越え、死を乗り越える存在である自覚があったと読める。自分が油注がれたものであることを確信し、復活を予言したということだろう。このあとのシナリオを神から聞かされていたと考えるのが自然だ。そのシナリオに従う、あるいは従うしか無いというのが人間イエスがおかれていた場所だろう。

元の文はどうなっているのか私には分からないが、「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」という文章には主体性は感じられない。そういう道が与えられていると弟子に伝え、自分はその道を歩む、あるいは歩まざるを得ないと主体的な覚悟を決めたように読める。読みようによっては、ペテロの信仰告白とイエスの十字架への覚悟が同期しているようにもとれる。

福音のヒント(3)にあるように『ペトロの思い描いていたキリストの姿が「栄光に満ち、この世で勝利を収める王」であり、受難のイエスの後に従う姿勢が欠けていたからでしょう』が理由でペテロはイエスがこの世の王として立つ準備が整う前に、時の権力と戦いに出るのは得策ではないと諭した。イエスから見れば、油注がれた者は「栄光に満ち、この世で勝利を収める王」ではなく、「この世からは排斥されて殺されてから死に勝った後におとずれる新しい世界の王」ということだ。この時点でその新しい世界の王がどういうものだか像を結んでいたかはわからない。ただ、36節の「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」を読むと、「栄光に満ち、この世で勝利を収める王」と死に勝利した新たな世界の王は両立しないことが分かる。復活のイエスはすでに人間ではなく神と人とをつなぐ結線であり「言葉」となる。その言葉によらなければつながることはできないということだ。ペテロは、復活のイエスに再開するまで、イエスの言っていたことを理解できていなかった。新たな時代が来て、新たな確信を得て過去を懐かしむところから、福音宣教にモードが変わる。その時ペテロは、本当のところは分かっていなかったが告白しておいたよかったと思っただろう。多分、信仰告白はそういうものだ。ずっと後になってから、その人にとってどういう意味があるのかが明らかにされるのだと思う。

私は『群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」』の群衆の一人だ。この世の王あるいは権力を目指す必要はない。この世の権力におもねって自分の命を失わないように、同時に自分のこの世の命を大事にして福音を発し続け、メシア・キリストに従うのが良い。

※画像はThe Work of God's Childrenから引用させていただいたペテロの告白の画像