技術進化は限りなく国家主権を奪っていく

今日の日経に2つ興味深い記事があった。無観客五輪が開いた配信の扉中国、仮想通貨を全面禁止である。

今までのスポーツ興行は会場への入場料を収入源の一つとするのが基本だった。会場の容量には限界があるし、集客力にも限りがある中で放送という技術が適用されるようになり放映権を買って広告主に広告提供枠を売るようになった。放送は個を把握できないので、一人ひとりに対して視聴権を売ることはできなかったのである。配信サービスが技術的に可能になるとこの構造は崩れる。選択肢は視聴者に部分的に移りプログラム視聴を有償で買えるようになり、広告が表示されることと引き換えに値引きサービスを受けることもできる。取引のモデルが卸売から直販に近づいた。アスリート側はまだ陸連などに管理される存在で、例えば内村航平の3分は500円払っても見たいという人が100万人いれば、その3分間は5億の売上になる。配信インフラコストを8割としても内村航平は3分で1億収入があって良い計算になる。配信の扉が開けばやがてそういう時代が来る。逆に陸連に変わる社会保障システムが必要になる。そのバランスが新自由主義的に崩れれば格差に押しつぶされる日がやってくる。新たなプレーヤーが生まれなくなり、残念な未来が待つことになる。面倒だが、2つの問題に同時に取り組まなければいけない。

この配信は、技術的には簡単に国境を超える。私自身10年強前に技術的にできるのに、なぜニューヨークで日本のテレビが見られないのかと思った。権利の有無を決める法を含む社会システムの問題で、本質的には物理的なロケーションとは無関係なものだ。壁がなくなれば、相手は1億人ではなく80億人になる。大坂なおみは一試合で額面100億とか稼げる日が来るかも知れない。

仮想通貨あるいは暗号資産も本質的には物理的なロケーションとは無関係だ。中国はグレート・ファイアウォールを設けて、インターネット上に国境を作っているので、ある程度は越境を制御することはできるだろう。古典的な領土モデルをインターネットにも適用しようと考える政府は中国だけではない。しかし、移動の自由は抑えきることは困難で、デジタル空間では技術的には越境など1秒もかからずにできる。その自由を認めれば、その分野での国家主権は奪われる。例えばビットコインで配信サービスが買えるようになれば、当然両替して使うだろう。なぜそれがいけないことなのか説明するのは難しい。

国際金融のトリレンマそのものの話として考えれば、仮想通貨を認めれば、独立した金融政策か固定相場制をあきらめなければいけない。ビットコインは国家から独立した仮想通貨だから固定相場はありえないので、独立した金融政策が守れなくなる。「世界経済の政治的トリレンマ」で考えれば、仮想通貨はグローバル化を意味するので、国家主権か民主主義のどちらかをあきらめなければいけない。長期的には民主主義を抑えることはできないので、現実としてはグローバル化か国家主権のどちらかを取るということになり、いわゆる右派は反グローバルとなる。しかし技術は否応なしにグローバル化を進めてしまうので、反グローバルは世界の支配者を目指すしかなくなる。

グローバル化に対応できなければ、手本を失った後、早晩失速する。日本の低迷の原因はまさにそこにあるのだろう。多様性への許容度が低ければ新しいものは生まれない。

構造的にどうせ国家主権は蝕まれていくのだ。民間でもオリンピック帝国であろうが、球団であろうがやがて権力者のうまみは失われていく。

中国は2022年中にもデジタル人民元を正式発行する方針だから正に通貨の世界で世界征服を目指そうとしていることになる。いくら中国が大きくて強大でも、そんなことはできない。民は自由がないことに長期的には耐えられないからだ。一方で、強い者に擦り寄らないと弱者は生き残れないし、その性質に権益(金儲け)は直結している。果たして、再び国家主権指向が高まって覇権争いに明け暮れる日が待っているのか、グローバル化が進んで同時にグローバルに社会保障が機能する日が待っているのか、今は前者の風が吹いている用に思うが、私はそれは破壊的な選択だと思っている。時は満ちているのか、いないのか?