今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第26主日 (2021/9/26 マルコ9章38-43,45,47-48節)」。砧教会を離れる決断をしてから2年目になった。昨年2020年9月24日に私の約50年間の砧教会との歴史はこうして終わったとブログに書いてから1年が経過した。その後、教会を去れば問題が解決されるわけではないことを悟ったので、現在は別帳会員から現住倍参会員への復帰を金井美彦氏に申し出て、役員会によって拒絶されている状況にある。砧教会役員会は密室協議を続けていて、その経緯は会員にも開示されていない。隠さないと都合が悪いことがあるのだろうが、私には理解できない。少なくとも、私が小学生の時から通った開かれた砧教会は今は存在していない。改めて、真実を追求していく。ちょっとした油断で教会は壊れるのだ。しかし、いつかは正常化すると信じている。犯した過ち「事」は追求を諦めないが、過ちを犯した「人」を排除する意思はない。
まずは福音朗読を引用させていただく。
福音朗読 マルコ9・38-43、45、47-48
38〔そのとき、〕ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。
「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」
前半の「逆らわない者は味方」は並行箇所がルカ伝9:49-50にあり、後半の「罪への誘惑」はマタイ伝18:6-9にある。
福音のヒント(1)では「逆らわない者は味方」にふれていて『イエスは弟子たちの狭いグループ意識を批判します。』と書いてある。この狭いグループ意識は正統派意識と言い換えても良いだろう。弟子たちはイエスにとって自分たちが特別に大事な存在だと望んでいただろう。イエスはどの程度弟子に依存していたのだろうか。一般にリーダーは信頼できる補佐官を必要とする。同時に補佐官の存在が制約となることもある。ひょっとすると、12弟子という存在は後世の創作かも知れない。ヨハネやペテロは福音書には必ず出てくるので、いわゆる側近の一人だったのは間違いないだろうが、フォロアーの集団の境界は恐らくかなり曖昧なものだっただろう。複数ある福音書から正確に12人を特定することは困難だ。「お名前を使って悪霊を追い出している者」はヨハネの視点では異端者で正統派に従うか排除するかしか道はないと考えたのだろう。正統派に属するものも過ちは犯すし、異端者にも良い行いはある。正統派か否かで差別するのは良くないと言ったと解釈することも可能だろう。
現在のキリスト教会(あるいはカトリック)はペテロを正統派の頂点に置くシステムとなっているが、今日の「逆らわない者は味方」の教えとは不整合に感じる。聖書ではパウロは直接イエスにあった事になっているし、本来ペテロを頂点に置くシステムの外にあった存在だ。そういう意味では、パウロは「お名前を使って悪霊を追い出している者」である。そしてパウロは「わたしたちに逆らう者」だった。「そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」とあるように「わたしたちの味方」は恒久的なものではなく、その時の状態にしか過ぎない。グループ意識は誰かがそのグループの中にいるか、否かで差別するシステムで、うつろう状態を恒久的なものとみなすリスクをもっている。それは幻想だ。
そこまで考えると「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」は重い。信徒であろうとなかろうと福音を伝えるものに協力する行為は福音伝道と同じだと考えてよいだろう。誰であろうと、善い業は善いのだ。逆にマルコ伝10:18にあるように「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。善い業は存在するが、善い者は存在しないというイエスの教えは心に留め置くべきだろう。人間イエスは自分自身をすら善い者とは考えていなかった。
しかし、自分の思いだけで善い業を追求するのは難しい。教会という組織や優れた指導者の教えを請うのは好ましい。でも最終的には善きことは自分で判断するしか無い。他人の声に従うのも良いし、従わなくても良い。
福音のヒントでは、(3)~(5)を「罪への誘惑」の箇所に割いている。私にはいつも恐ろしく迫ってくる箇所だ。言葉を発すれば多かれ少なかれ「つまずかせる者」になる。動機が善意であろうが悪意であろうが関係ない。説教も人をつまずかせる。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」は大いなる慰めで、法王であろうと市井の一人であろうと誰もが「つまずかせる者」である。自分が「つまずかせる者」であることに絶望する必要はない。全ての人は罪を犯す。大事なのは、罪を自覚できた時にどう動くかだ。マルコ伝では1章にその答えが書いてある。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。自分が善い者でなくても、悔い改めて福音を信じることはできる。