今日、一年強ぶりに砧教会のオンライン礼拝後に事前通告の上で発言した。不快な思いをさせてしまった方ばかりだったのではないかと思うが、一定の効果は得られたと考えている。私にとって決してやめられない戦いを今日再開した。
言葉遣いの問題があるのは承知しているが、現在の金井美彦氏は独裁者である。しかし、周囲の人は私を除いて恐らく誰も彼のことを独裁者だとは思っていない。金井美彦氏は誠実だし、極めて有能な説教者だと思う。リーダーとしての資質も低くないと感じている。だから自分が独裁者になることなど想像もできないだろう。ただ、教会の運営は独裁でいいと思っているという発言があったのは事実である。もちろん、それは自分が邪悪な独裁者になることはないという自信があるから発言できることだ。それに、今のところ彼の独裁の被害者は私を除けばほとんどいない(ゼロではない)。
歴史を振り返ると独裁者は独裁者になる前はかなり魅力的である。さらに支持者が増え始めれば支持者を熱狂させる力を発揮し、より魅力的になる。ちょっと変だと思う点があってもその人を信じると表明する人は増えていく。特に他に選択肢が見当たらない場合は、彼(彼女)の発言が価値を決めていく。例えば、金井氏が会堂再開などしていないと言えば事実と無関係に会堂再開などなかったということになるし、証拠も示して会堂再開はあったし、それは民主的に決めた総会決議に反するという発言があっても、事実に基づく検証は行われない。最も恐ろしいのは、そう主張する人たちは善意で誠実で本当にそれが正しい行動だと信じていることだ。そして、その人達に盲目的傾向があるわけでもなければ、論理的思考力が低いわけでもないのに、事実より自分の心情を優先してしまう。
今、世界中で英雄待望論が猛威を奮っている。米国一強の構造はすでにしばらく前に崩壊しているのだが、それを多くの人が認知するようになって、不安から強さを求める気持ちが高まっているのが原因だろう。これからしばらくは権力争いは激烈を極めることになるだろう。その結果、多くの無垢の民が犠牲になる。それはコロナの犠牲者だけにはとどまらない。
繰り返すが、民主主義国家では、民意がリーダーを決める。そして、異論を唱える人はあるだろうが、圧倒的多数は善意に基づく行動をする。その結果、安倍晋三を首相にし、トランプを大統領にし、ブレクジットに拍手喝采を贈り、中国を敵視したり、イスラム教を邪悪なものと決めつけたりする。ほとんどの人に悪意など微塵もない。本心から好ましいと思う行動をするのである。しかし、一人の人が見える視野は狭い。あなたが見えているものを私は同じように見ることはできない。私は見えていると考えれば必ずやがて過ちを犯す。森羅万象を見ることなど誰にもできない。私ができることは私が見えている世界では、明らかにおかしなことが進みつつあるという私にとっての事実を表明することだけである。
私は、一点だけ確からしいと思っていることがある。それは、自分は他の人と違って他の人には許されない行為でも自分にはやって良いことがあると思ったら、それは地獄の入り口だということだ。それに気がついて引き返すことができればそれは幸いなことだと思う。
人の心の中のことは分からないが、私は安倍晋三氏は自分には一点の曇はないと心から思っているのではないかと考えている。同時に、客観的な事実に当たればどう考えても彼はアウトだ。しかし、彼にとっては自分は法の外の存在なのだ。彼の不義を正す発言をしている人を叩く民も、その人が見えている世界で誠実に行動しているのだろうと感じている。それでも、事実を見つめる努力を怠れば、専制と偏狭が支配することになる。それが歴史の真実だと思う。
私の戦いは続く。願っているのは、金井美彦氏が独裁者でなくなることであり、砧教会が神の公器として福音の業にたずさわることである。私自身が、それを達成できたと思うまでは、私の戦いは終われない。本当に苦しい戦いだし、すでに多くの犠牲者を産んでしまっているが、やめることはできないのである。
コメント
ボンヘッファーの行動は適切でなかったと考えるが、その時代に彼に何が見えていたかを知ることはできない。
現代において、独裁者の筆頭格がヒトラーであることに異論を挟む人は少数派だろう。
神学者ボンヘッファーはヒトラーの暗殺を指向していたと書かれた文書がある。例えば、ヒトラー暗殺を企てた牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーだ。もちろん、私は小者でボンヘッファー氏とは圧倒的に格が違う。しかし、私は物理的な暴力をふるう意思は全く無いが、真実への戦いのためなら自分の手を汚すことを躊躇うことはない。私は、決定的に誤解しているのかもしれない。もしそうであれば、その誤解の呪縛から解いていただきたい。