今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第28主日 (2021/10/10 マルコ10章17-30節)」。
新共同訳ではマルコ伝では「金持ちの男」とあるが並行箇所のマタイ伝19:16では「金持ちの青年」、ルカ伝18:18では「金持ちの議員」と見出しが異なっている。書いてある内容に違いは見当たらない。まずは、福音朗読を引用させていただく。
福音朗読 マルコ10・17-30
17〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
《28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」》
この箇所は、私には印象的な箇所で子供のときに読んだときに心に響いたことを思い出す。中学生の頃は、因果律を前提に考えていたから「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」は私の聞きたい問だった。善いことをすれば報われると考えていたから、何をすればよいのだろうというのは自然な問だ。質問者は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えているが、私なら「先生、そういうことはみな、子供の時から守ろうと努力してきました」あたりが答えとなる。それは、今も同じだ。守れなかった約束はたくさんあるし、振り返れば気が付かずに犯してきた罪もあまたある。子供の時は「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」に抵抗感もなかった。
福音のヒント(5)でこの箇所の直後の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(31節)に触れている。「ほんとうは人間の功績の問題ではないのです」と書かれている。私はこの節から神の国は因果律に支配されてはいないと解釈している。
金持ちの男は、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」に気を落とし悲しみながら立ち去った。お金が足りないことで苦労している人を助けるのは永遠の命を受け継ぐためには望ましい行為だろう。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という「そういうこと」にはきりがないのだ。他人と比較すれば、よくできているとしても、やり尽くすことなどできはしない。少なくとも金持ちには施しの業を行う余地があり、何ももっていない人よりは、やれることがあるのにやらないでいることが増えてしまう。やり尽くすことは困難だろう。一生懸命頑張って投資して苦しんでいる人の自立を促すような良い仕事を作ったら、さらに富んでしまうかも知れない。
福音のヒント(2)にあるように私も「イエスはこの金持ちの男のすべてを否定したとは思え」ない。福音のヒント(3)では「財産があれば、自分の財産を頼りにして、神に信頼する生き方を見失う」とあるが、それには今ひとつ賛同できない。この部分から私が想起するのはマタイ伝25:14の「タラントン」のたとえである。財産があれば、それは活かせばよい。できることはやり尽くせというかなり過酷な教えで、緩くない。金持ちの男はその後善行をさらに積み重ねたかも知れないし、ただ財産を自分のために食いつぶしたかも知れない。小さな財産を大事にして失敗することもあるし、本質的には財産の多少は関係ない。ただ、大きな金を活かすのは難しい。そういう意味では財産のある者が神の国に入るのは難しいという解釈は成り立つことになる。人智を尽くして天命を待つという事だろう。
主の祈りでは「御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈る。神の国は死後の世界で目指すべきゴールであるかも知れないが、今の私は現世のことだと思っている。人智を尽くしつくすことはできないが、自分のために人智をつくすのではなく、「御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈りつつ、善いと思うことをできる限りやることで、御国はやがて来る、あるいはこの世が素晴らしく変わっていくというのがイエスの教えと考えている。私は自分が生きていくために蓄財するのはちっとも悪くないと思う。しかし蓄えた力を支配に用いるのは悪だと思っている。得た力は、あまねくすべての人がよりよい人生を生きるために尽くされるべきだと信じている。一人の人を支えるために用いられることもあるだろうし、地球環境の保全に使われることもあるだろう。この世の神の国はムービング・ターゲットで永遠にゴールは逃げていく。あるところまでたどり着けば先が遥か彼方にあることに気が付かされるが、それで良い。
持てるものが大きかろうが小さかろうが、それを活かしなさいと命じられていると読む。