今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第33主日 (2021/11/14 マルコ13章24-32節)」。
福音のヒントに学び始めて1年以上が経過し、教会暦を少し意識するようになった。今回の冒頭の教会暦と聖書の流れには「教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます」と書かれている。Googleで検索しても終末主日が何を意味するのかはよくわからなかったが、アドベントの直前の日曜日が「王であるキリストの祭日」英語ではOur Lord Jesus Christ, King of the Universeとされている。カトリック教会では20世紀になって教会暦に追加された日のようだ。
福音朗読 マルコ13・24-32
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
24「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
25星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
32「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
地球が丸い星の一つであることが常識になった今、「星は天から落ち、天体は揺り動かされる」が起きるとすると、天体が揺り動かされるというよりは、地球が軌道から外れるようなことが起きるのかなということになるだろう。太陽は暗くなりということは太陽から離れる方向に動くということだろうか。太陽系に大異変が起きるような力学的な事象が起きるのかも知れない。まあ、常識的に考えてそれほどのことが起きれば人間は生きていることはできないだろう。その時に人の子が来るとある。そういう日が簡単に来るとは思えないが、あるかも知れないとは思う。それはいつかは子も知らないと書いてあるので、この時点ではイエスもそれがいつかは知らなかったということになる。ブラックホールが太陽系を破壊するような日が来るのかも知れない。今の科学技術であれば、しばらく前にはある程度予測できるだろう。
どちらかと言えば、地球温暖化や核や感染症、化学物質による人類滅亡のほうがより現実な終末に感じられる。突然の地震や気象災害の前に人は無力だが、完全からは程遠いとは言え、様々な知見は得られるようになった。突然を突然でなくするための活動はある程度機能しているように思う。しかし、科学の力が及ぶ範囲は小さい。
科学は神との戦いでも有り、人との戦いでもある。ガリレオは地動説をとなえたことで異端審問に問われた。しかし、やがて事実は明らかになる。Wikipediaのコペルニクスの記事を見ると「コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁は特に反対意見を表明しなかった」と書かれている。一方「マルティン・ルター本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している」とあり、政治的な動きが起きると事実に向き合えなくなることがわかる。
現実の社会では、神殿を見て『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』と感じるのは自然なことだ。イエスが言うように形あるものはやがて壊れる。感動を与える建造物の裏では、それを利用した不当な支配が行われることも少なくない。しかし、時が来れば力の支配は崩壊する。今日の福音朗読の直前に「22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、
事実を大事にしない限り、真理に近づくことはできない。
福音のヒント(3)で迫害に触れている。「この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる」は希望のメッセージとなる。ただ、正しく生きようとすることはできても正しいかどうかは自分ではわからないし、他人にもわからない。確認できるのは約束、法則と事実、事象を比較することだけだ。
子供の頃は、やがて全てはリセットされるから、負けがこんでいても、信じてさえいれば、その時がきたら勝者になれると思っていた。今も、そういう気持ちは残っているかも知れないが、勝者になることに意味はないと思うようにはなった。今は、自分がやれること、やるべきことをやれば良いと思っている。自分であれ、他人であれ、それは変わらない。意見の違いがあるのは当たり前だから、それぞれが良いと思うことを追求した結果争いになることはある。事実を大事にして、自分が完全でないことを意識して生きることしかできない。
幻を見るのは、個人的な体験だから他人にはわからない。イエスの死から2,000年も経過しているのだから救いの日は近づいているという言葉を信じるとしてもそれは自分の人生の時計で測れるようなものでないことは事実としてわかっている。しかし、同時に今この瞬間にその時が来ないという保証もない。時に関わりなく、誠実に自分の能力の限りに愛のわざに励むのがイエスの説く道だと考えている。時代の常識に反したとしても、群衆の一人となるのではなく、一人の人として自分の道を探して進めとイエスは教えているのだろう。
盲信は燃え上がったり冷めたりする。そういう感情から自由になることはできないが、愛はもっと静かなものだと考えている。自己愛から逃げることはできないが、同時に隣人愛、人類愛を持つことはできる。
教会や国を愛する思いは危ない。集団は専制と隷従、圧迫と偏狭を生む。同時に集団を形成しなければかなわない進歩はある。だから、すべての集団は専制と隷従、圧迫と偏狭に陥らないように気をつけなければいけない。どれだけ気をつけても多かれ少なかれその罠に落ちる。落ちるから、憲法に書くわけだし、Code of conductに書く。それを思い起こして誠実に歩んでいくしか道はない。権力者は罠に落ちる。罠に落ちたら正して救えばよいのだ。ただ、権力者を人として排除してしまうと、それは偏狭となる。さばくべきは罪であって人ではない。病気になってしまったら治ってもらえばよいのだ。もちろん私もあなたも罠に落ちる。罠に落ちた時に、病気になってしまった時に手を差し伸べるのが愛だ。誰もが愛を必要とし、誰もが愛する能力を有している。
終わりの日があることを意識することで、それはいつかやればよいことから、今やらなければいけないことに変わる。
※画像はWikipediaの「天球の回転について」で引用されているパブリックドメインのもの