1年8ヶ月ぶりに会堂礼拝と聖餐式に参加した

hagi に投稿

今日は、タリン滞在の最後の日曜日。教会に行こうと思っていたわけではないが、海方向に散歩に出たら、巨大で現代建築の教会があるのが見え、Google Mapを見たらメソジスト教会と書いてある。ふーんと思って、とりあえず教会の前まで行ってみることにした。到着したのが9:45頃で、礼拝は10時からと書かれている。何となく考えていたら、中から平信徒と思しきおじさんがやってきて、礼拝は1時間位ですかと聞いてみたが英語が通じない。とにかくCome in, Come inと繰り返すのでまあ良いかと思って入ってみた。英語翻訳のレシーバーもある。詰めれば1,000人くらいは入れるのではないかと思われるほどの大きな建物だが、ちらほらとしか人がいない。司会の人の話などからすると、コロナのせいで最近まで締めていたらしい。隣の人との距離は十分に取れるし、みなマスクも着けていて(担当を除いて)賛美歌は歌わない。

聖書は3箇所、マラキ書3章とルカ伝1章の最終部と3章の頭。説教で深く触れられる感じはしなかったが、話は結構長かった。説教は外国人にはかなり難易度が高い。英語であっても、日常会話とは違う語彙が多いし、同じ単語でも含意に差があるからほとんど理解できないのが普通だ。さらにエストニア語の説教の多分素人による同時通訳だからニュアンスは消える。せっかく参加するのだからと、かなり真剣に取り組んだのだが、正直に言って全く心に響くことはなかった。もちろん、教会や牧師の問題ではなく単なる自分の能力不足であることは間違いない。

賛美歌は聞いた曲もあったが聞いたことのないものもあった。使徒信条は同一、聖餐式の式文もほぼ同一、主の祈りは祝祷前の最後に祈るのに驚いたが内容は同一、祝祷も同一だった。

礼拝が終わったら12時を回っていた。疲れたし、ほとんど何も分からなかったが、共に礼拝の時を持てたことは良かったと感謝している。次に滞在するときにも参加する気になるかはわからない。

今日の礼拝でも話題になったが、共に歌う、食事を共にするというのはバリエーションはあるものの教会運営の基本中の基本とされてきたと思う。しかし、その常識はほかの社会活動と同様に新型コロナウィルスによって一度完全に破壊された。数回ならともかく、2ヶ月も経過すれば正気を失う人が出てくる。元通りに戻したくて戻したくて自分が主導した約束すら反故にするような牧師や長老が出てきたりする。しかし、人によって見える世界は違う。今日の教会でも2回目のアドベントになっても戻ってこない人はいるようだ。

テレワーク協会の研究部会では「集まることの価値」が議論の対象となっている。ビジネスの世界では、ほとんど集まる必要はないことはほぼ間違いない事実として認識されている。同時に、集まりたいという気持ちは抑えることはできない。仕事を進めるためには集まる必要はないのに集まりたいから集まるのである。そう言い切るのは早いし語弊もあるだろうが、第一は集まらなくても仕事が進むプロセスを整備するのが王道であることは間違いないだろう。それはそれとして集まることの効果もよく考える必要がある。

今日の礼拝に出て改めて感じたのは、もう主日礼拝を集まって行うというフォーマットは早晩終わるだろうという流れだ。オンライン化が進めば場所に集うことを前提にする集会は「集まれない人を差別する」集会となるからだ。そしてオンライン化は設備の収容上限という物理限界を大幅に緩和する。地理的要件も緩和するから、牧師の説教の内容や牧会プログラムの良否が勝負となる。牧師や教会組織にも強烈な競争原理が導入されることになるだろう。私は、そういう未来を望まないが、やがて来てしまうだろう。ひととき抗うことができても、時代の流れを止めることはできない。

ヨーロッパに来ると古い立派な教会堂を多く目にするし、今日の教会もそうだが新しい巨大な教会堂もある。しかし、中は結構スカスカだ。廃教会も増えている。教団組織が頑張っても流れは変わらない。本質的な転換点を迎えているのだろう。

教会をキワモノにするのはおかしい。本質を見据えた、次の形を模索する必要がある。ノスタルジーに浸っているだけでは未来は開けない。