新生活64週目 - 「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる(中盤)」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第3主日 (2021/12/12 ルカ3章10-18節)」。

先週から3節飛ばしたところからである。なぜ3節飛ばすのだろう。福音のヒント(1)では、この部分

7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

に触れられていて「アブラハムの子孫であるユダヤ人だから祝福を受けられるだろうというような甘い期待は打ち砕かれます」と書いている。なるほど、きっと神はどうにかしてくれるだろうと期待していた人はいたかも知れない。でも多分、ヨハネのもとに来た人たちは全体で考えていたのではなく、自分あるいは自分の愛するものが救われるためにはどうしたら良いのかしか考えていなかったのではないかと想像する。逆に言えば、こういう厳しいことを言わなければ人は集まってこなかっただろう。

少なくとも大人は現実は厳しいことをみな理解している。その厳しさに立ち向かう以外に道はないことも知っている。だから、求道者になるのだ。

福音朗読 ルカ3・10-18

 10〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

福音のヒント(2)では、この教えの部分を「自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすること」とまとめている。至極もっともで、その通りだと思うのだが、何か当たり前すぎる気がする。いつの世にも、いろいろな意味で強さが正義と考える考え方は多かれ少なかれ蔓延しているものだ。それは違うよという声も必ずある。無視されてしまうことは多いが、少なくない人の耳に届く。ヨハネは、そういう声だったのだろうか。神あるいは神の使いが来るということは、そういう強さが一瞬にして無効になるということだから、既得権を持つ人には脅威だし、持たざる者にとっては正に福音となる。そして実際には来ない。

イエスは来たが、イエスが来たことで権力構造が激変したわけでもなく、現実が何か変わったわけではない。変わったのは、人の内面だろう。社会が変わったわけでなくても、ひとりひとりの心に愛が宿れば、行動は少し変わる。その変化が社会を変えていく。ヨハネは聖書では露払い役なので、警告者として書かれていて、イエスが来て世の中は根底から変わったことになっている。

イエスが来て去ってすぐに世の中が変わったわけではないが、やがて価値観を規定するようになり、2,000年経過してもなおその効力は続いている。2,000年続いたのだから、この先も続くのだろうと漠然と考えてしまう。

ヨハネはまっとうなことを厳しく言った。福音のヒント(4)にあるように「洗礼者ヨハネが予告した「来られる方」は、神の裁きをもたらす人だった」と伝えたのだろう。2,000年前の事実は違った。その瞬間には神の裁きは形にはならず、逆に十字架にかけられて死んでしまった。違ったのは、死んだのに終わらなかったところだ。今も、機能し続けている。

今日の福音のヒントの最後の部分はすごく印象に残る。

わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。

私は、事実に基づいて砧教会の牧師と役員を告発したことで居場所を失ったまま2回目のクリスマスを迎えようとしている。真実のないものがイエスを語り、事実を無視する人たちがその金井美彦氏を擁護している状態にしか見えないのである。こういう時にも、愛を行うチャンスはあるのだと信じているが、自分にはそのすべがわからない。やはり、扇動者こそ追放されるべきではないかと思われてならないのだ。本当になすべき愛の行為は何なんだろうか。嘘つきのごまかしを義とすることか。そんな砧教会に何の存在価値があるのだろうか。でも、きっと進むべき道と価値はあるに違いない。もちろん、金井美彦氏にもだ。しかし、彼らが私を排除し続けている事実はなくならないし、事実を求める声に応じていない現実は今日も変わらない。

牧師や教師はもっともな事を言うが、そこに真実がなければ空虚だ。自分の信じる真実を追求する以外の道はあるのだろうか。まあ、現実の道はまっすぐではなくこんがらがりきっている。それでも、自分の道も未来につながっているはずだ。違う道を選ぶことはできるかも知れないが、それで事実が消えるわけではないのだ。昨年、違う道を選んだ時に嫌というほど思い知らされたので、今は真実に向き合い続けるしか無いと考えている。きっと、時は来るだろう。それが自分が想像している形とは違うとしても、それはそれできっと道は開けるだろう。

砧教会や金井美彦氏のことを考えてしまうと残念ながら私にクリスマスの喜びは来ない。子供の頃からの50年の月日はやはり長いのである。それでもなお、クリスマスを祝いたい。そして彼らの道が真っ直ぐなものになることを祈る。